第36話 巡察騒動 4
ケー・シーは見た目は犬だが妖精族と共生する魔獣で、影の中を自由に行き来できるという力がある。ちなみに明るい場所ではその力は発揮されない。だから普段から専用の檻に入れておくのだと、飼い主もとい特別区の魔獣管理センターの職員の言であった。
「で? その犬が夜な夜な影の中を行き来して冷蔵庫開けて、羊羹や俺の冷奴丼食ったってこと? そんな馬鹿な」
「緒方課長によるとそうらしいですよ。ベジタリアンなんですって。あんこちゃん」
魔獣ケー・シーの嗅覚はワーウルフより遥かに鋭敏らしい。使っていた掃除用具を用具ロッカーにしまいながら、犬飼はユリウスを見た。
「あんこちゃん?」
「あの犬の名前ですよ。あずきが大好きみたいでそれから取ったらしいです。センターでも度々冷蔵庫から盗み食いして困ってたって言ってました」
「魔獣ペテルギウスとかそんな名前じゃねえのかよ……てか魔獣管理センターなら逃がすなよな……」
「お見合いの時にうっかり逃げちゃったんですって。それにあんこちゃんは女の子です」
「あ、そう……」
なんだか勝手に勘違いしてビクビクして損したと、犬飼ががくりと肩を落とす。何も知らないユリウスは首を傾げながら「でも、本部長のお茶請け、どうするんだろう」と心配そうに言った。
すると給湯室の扉が勢いよく開き、警務係の浅野警部補が神妙な顔で二人を見つめた。
「本部長来たよ! ほら身だしなみ整えて! 犬飼腕まくり直せ!」
「げっ! すいません」
二人は慌ただしく身だしなみを整えて、事務室へ向かった。
――――――
成牛ほどもある巨大な犬を前にして、虎杖(いたどり)県警本部長は戸惑いと好奇心がない交ぜになったような表情を浮かべて、傍らの署長を見てから黒い毛むくじゃらの舌を出して寝そべっているそれを見つめた。
「これは犬ですか?」
「はい、犬です」
まさかこの齢になって中学校の英語の教科書に出てきそうな例文を日常会話で交わす事になろうとは、境島署の署長も、県警本部長も思いもよらなかっただろう。その会話を聞いて、後ろに控えていた本部長付の警察官と副署長の肩が震えていた。
「犬……なんですか……」
「厳密には魔獣ケー・シーというらしいです。基本草食で穏やかな気性だと聞いております」
「このような犬、一般で飼えるのですか」
「特別区の魔獣管理センターから逃げ出したようです。もうすぐ職員の方が迎えに来ると思いますよ」
「……撫でてみてもいいですかね」
署長より恐らく一回りほど年若い本部長は犬好きらしい。視察に来たはずが完全に目の前の巨大な犬に心奪われていた。
「大丈夫ですよ。私も何回か餌やりで撫でたりしてますから」
本部長はぱっと顔を輝かせ、真っ黒な毛並みの背や首を撫で始めた。魔獣は気持ちがいいのか大人しくされるがままになっていて、もっと撫でろと遠慮なく上等そうなスーツに頭を擦り付けているが、当の本部長は非常に嬉しそうだ。
「本部長、そろそろ……次もありますので……」
お付きの若い警察官が遠慮がちに言った。スーツは幸い黒に近い色だが、犬の毛でとんでもないことになっている。
「うむ……署長、ガムテープお借りできますかね」
「じゃあ署長室でお茶でも飲みながらやりますか」
結局、大した視察もしないまま、二人は署長室で歓談と相成った。
――――――
「それで結局、本部長は何しに来たんですか?」
無事に視察も終了し、給湯室で茶碗や急須を洗っていたユリウスは丁度コーヒーメーカーの豆を取り換えていた浅野に問いかけた。浅野は呆れたように笑いながら新しいフィルターに豆を入れて言った。
「着任の挨拶だよ。あと視察。犬と遊んで、署長とお喋りして帰ったよ。そんだけ」
「それだけ? 他は何も見なかったんですか?」
「そう」
あんなに大騒ぎして色々掃除して草刈りして片づけたのにバカみたいだよね。と浅野が笑った。証拠品の倉庫を一日かけて整理した刑事生安からはブーイングが起きているらしい。
ちなみに魔獣のあんこちゃんは、先程無事にセンターの職員が来署して引き取られていった。冷蔵庫の上に置かれているお詫びの菓子折りの「魔獣まんじゅう」は魔獣管理センターに併設されている土産物店にしか販売されていないらしい。
「まあ、普段掃除なんてしないからいい機会だったんだよ」
「はぁ」
不貞腐れて文句を言う刑事課長の姿が眼に浮かんだが、ユリウスは黙っていた。
「そういえば、お茶請けの羊羹、大丈夫だったんですか?」
「ああそれ? 冷蔵庫見てみな」
「冷蔵庫?」
何やら含みのある笑いを浮かべながら言う浅野に、訝しみながらも冷蔵庫を開けた。すると、銀色のバットの中につるりと滑らかな濃緑が見えた。それは既に一部が四角く切り取られていて、全部濃緑色だと思っていたそれの下半分は綺麗なあずき色だった。
ユリウスは抹茶と小豆の美しい二層の羊羹を見てから浅野を見た。
「これって……」
「それ、署長が作ったんだって。理由話したら官舎で作ってくるって言ってさ。食べてみなよ。美味しかったよ」
「署長が……」
何だか情報量が多すぎて付いていけない。ユリウスは洗ってあったスプーンを手に取ると、バットから直接抹茶と小豆の羊羹を掬って口に運んだ。
「え……すっごい美味しい……」
滑らかでさっぱりした甘さのそれは、店で食べるものと何ら差はなくて、非常に美味であった。
――数時間前。署長室での会話より―――
「いや~。申し訳ない。ガムテープまでお借りしてしまって。子供達にいい土産話が出来そうですよ」
「いいんですよ。ああそれと本部長、こちらお茶とお茶菓子、召し上がってください。上手くできているといいんですが」
「綺麗な羊羹ですね……上手く? え、もしかして署長が? 嘘、すごい美味しい」
「いやいや全く素人なんですがね。単身になってから始めた趣味なので中々食べてくれる人がいないんですよ」
「本当に奇遇ですな。私も丁度お菓子作り始めてみたんですよ。後でレシピ教えて頂いてもよろしいですか?」
「是非是非! ではスマホのID交換しますか? 良さそうなレシピ交換するのに便利ですよ」
「おお! ありがとうございます!」
こうして、境島署長と県警本部長はスイーツ作り趣味友達になったのであった。
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