第35話 巡察騒動 3
そしてまた時間は当日に戻る。
ユリウスと浅野警部補が冷蔵庫の前で本部長に出す御茶請けが食われたと大騒ぎしている一部始終を奥の休憩室で聞いていた人物がいた。
(えええええ……マジかよ……えらいこっちゃ……)
丁度休憩室の掃除をしていた犬飼は頭を抱え、畳の上をゴロゴロと転げまわる。
(俺らが食いましたなんて言ったら浅野班長にぶっ飛ばされるかもしんない……あれ、でもご自由にって書いてあったような……)
犬飼はその時の様子を冷や汗を流しながら必死に思い出した。
それは夜勤の日、冷奴丼が冷蔵庫から消えた翌日の事だった気がする。
――――――
「おはようございまーす」
夜勤の前半勤務だった犬飼が仮眠室からのっそりと出てくる。黒い柔らかな獣毛に覆われた顔は芸術的な寝ぐせになっていた。
「おーっす。うわ、お前顔の寝ぐせやべーぞ」
相勤者の原田警部補が仮眠室に繋がっている洗面所で歯を磨きながら言った。
「そうなんっすよー。ワーウルフ族の宿命っすねこの寝ぐせとの闘いは」
「いいなぁー。俺なんて寝癖になるほどの髪なんてねーしな! あっはっは!」
「ははは……」
原田の冗談なのか愚痴なのか分からない言葉に苦笑しつつ、犬飼はバシャバシャと勢いよく顔を洗い、櫛でどうにか寝ぐせを整えていると、昨夜の当直長である黒柳刑事課長が制服姿に健康サンダルをつっかけてどこかへ行くのが見えた。
「おはようございます。課長どうしたんすか?」
「おう、毒島達がこの前連れて来たでっけえ犬の様子見てくっからよ。ついでに水と餌もな。あいつドッグフード食うのかな」
「どうでしょ。でも昨日緒方課長がドッグフードの袋持ってましたから大丈夫じゃないすか」
「ふーん。オッケー」
黒柳がペタペタとサンダルを鳴らしながら外へ出て行くのを見届ける。すると、冷蔵庫からコーヒーを取ろうとした原田が嬉しそうな声を上げた。
「おっ、羊羹だ」
その声につられて冷蔵庫を覗く。銀色のバットの中に滑らかな小豆色が光っていた。バットの端には黄色い付箋で『ご自由に食べてください』とメモ書きされていた。
「誰か作ってくれたんすかね」
「いーじゃんゴチになろうぜ」
原田が早くも食器棚の引き出しからスプーンを取り出しバットから直接掬って食べた。
「うっめぇ。お前も食えば」
「あ、じゃあいただきまーす」
犬飼も引き出しからカレー用のスプーンを取り出し、大きく掬って口に入れた。涼やかで上品な甘さと滑らかさ。店に並んでいてもおかしくはない出来だった。
「あっ、美味いコレ」
朝から美味いデザートを食べて、当直明けの疲れがほんの少しだけ軽くなったような気がした。
「原田班長。じゃあ俺パト洗ってきますわ」
「オッケー。すぐ行くよー」
犬飼は洗車セットをバケツに入れて、庁舎裏の駐車場へ向かった。
「あ、課長」
パトカー後ろ辺りで、黒柳が座り込んで何かを見つめていたので、犬飼は思わず声をかけた。
「おう。やっぱ食わねーわ。ドッグフード」
視線の先にはデカいと言うにはあまりに控えめな表現である黒犬、魔獣ケー・シーがトドのように寝そべっている。
「改めて見てもデッケーっすね」
成牛くらいあるその犬の首にはオーガ族の緒方会計課長により、駐車場などで使用するボラード用チェーンが巻かれている。
大きなザルにドッグフードが盛られているが、当の本人は見向きもしていない。
黒柳が座ったまま電子タバコを咥えた。健康サンダル履きの制服姿でタバコを吸ってる所など本部監察室が見たら大変なお叱りを頂くことになるだろうが、黒柳はそういう所には無頓着であった。
「でっけーよなあ。散歩行こうと思ったんだけどさあ。絶対通報されちゃうからやめた」
「通報されますね……あ、お前水ねーじゃん。待ってろよ~」
金ダライに張っていた水が無くなっているのを見て、犬飼は洗車用のホースで勢いよく水をタライに入れた。それを見た途端黒犬はむっくり起き上がり嬉しそうにホースの水を飲み始めた。
「喉乾いてたんだな~。おぅっぷ! おい! やめろよ!」
水を飲んでいた黒犬は何故かしきりに犬飼に頭をこすりつけ、顔を中心にべろべろと舐め始めた。セットした黒い艶やかな毛並みが見るも無残な事になっている。巨大な頭を押し退けようとするも物凄い力だ。ワーウルフの膂力でも防げないとは、恐るべき犬である。
それをタバコを吸いながら黒柳がまるで他人事のように爆笑しながら眺めていた。
「ぎゃー! やめてー! せっかくセットしたんだっつーのー!」
「あっはっは! なになに犬飼ちゃんからなんか美味いもんの匂いでもしてんじゃないの?」
「なんも食ってないっすよ! うわー! お前制服びっちゃびちゃじゃねーかふざけんな!」
満足したのかタライの水で足を浸して遊び始めた黒犬に、ビシッと指を突き付けたが、犬は「わふ?」と可愛らしく首を傾げるだけであった。
――――――
(いやいやいや。絶対付箋貼ってあったもん。ご自由にお食べくださいって)
先日の事を思い出しながら、休憩室ではたきを持ちながら犬飼は云々と唸っていた。あの時、原田も一緒に羊羹を食べた筈だ。その後恐らく当直員達も食べていたような気がする。
いや、そうだ。絶対そう。
そんな事を思っていると、不意に入り口のドアががらりと開けられ飛びあがりそうになるほど驚いた。
「あれ? 犬飼部長?」
「ひぃっ!! な、なんだよユリウス。も~、びっくりさせんなよ!」
「す、すいません」
ユリウスは理不尽に怒られているにも関わらず律儀に頭を下げた。彼は自分が王族だという事を一つも鼻にかけた事はない。この署内でも異色ともいえる経歴の新人警察官の好ましい所でもあったし、犬飼はユリウスを気に入っていた。少し真面目過ぎるきらいがあるところが偶にキズという所であろうか。
「いや、ごめん。その、さっきの話さ……」
「え? あのワンコの事ですか?」
「えっ、いや違っ」
「何か飼い主見つかったみたいですよ。明日来るそうです」
「へ? あ、そ、そうなんだ……は、はは。よかったね、はは」
「それはそうと本部長の羊羹が食べられちゃったのでどうしようって……」
ぶわり、と冷や汗が犬飼の全身から噴き出す。ヤバイ。これは非違事案ではないか。呼び出されて監察室のお歴々にねちっこく質問され、懲戒され、そして教養資料で羊羹を窃取した事案として全所属に共有されてしまうのではないか。
あらゆる悪い妄想が犬飼の脳内を駆け巡る。ユリウスは犬飼のそんな苦悩など一ミリたりとも知らぬようで、能天気に笑っていた。
もうダメだ。真実を言おう。そして潔く怒られよう。
「あ、あのさ、あの羊羹さ……」
「でもびっくりですよね。あのワンコが羊羹食べちゃったとか」
「……へ?」
ひどく間の抜けた犬飼の声とユリウスの笑い声が、せまい休憩室に響いた。
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