第33話 巡察騒動 1

「ああああああああ!」


 お世辞にも絹を裂くとは言い難い野太い悲鳴が、正午前の庁舎内に響いた。来庁者の一般人や、玄関や廊下を掃除していた署員たちが何事かと顔を上げる。

 丁度、給湯室の前をモップがけしていたユリウスはその悲鳴を間近で聞いて、腰を抜かしそうになるほどびっくりした。


「な、なに……?」


 モップを手に恐る恐る給湯室を覗くと、警務係の浅野警部補が冷蔵庫の扉を開けたまま茫然としていた。

 署内でも五指に入る大ベテランで、いつも余裕のある彼のそんな表情を見た事が無かったので、何が起きたのかと戦々恐々とした。


「浅野係長……?」

「ユリちゃん……」


 ゆらり、と浅野が振り返る。恰幅のいいその肩が若干震えている。その手には、細長い直方体の箱が握られていた。


「これ、誰が食べたかわかる……?」

「え……」


 目の前に突き付けられた直方体。箔押しの文字と、上品で涼し気な笹が描かれている。箱には「ふなとや 練り羊羹」と記載されていた。


「ああ、このお店、早朝から行列ができるって有名な所ですよね……」


 地元の隠れたローカルグルメを紹介するテレビ番組で見た事があった。若い女性タレントが大袈裟なリアクションで美味しい美味しいと言っていたのが記憶に新しい。


「今日さ……新任の本部長が来るの知ってるよね……」

「あ、はい」


 先日、県警本部長の人事異動が発表され、新しい本部長が着任した。新任の本部長は、幾日かかけて全ての警察署を視察するのだが、一番最初に白羽の矢が立ったのは境島警察署であった。署員たちは大急ぎで山のようなファイルと書類の片づけや掃除に追われることとなった。


「本部長の御茶請けにするためにさ……昨日の朝並んで買ってきたんだよ……」


 空になった箱を手に地の底から滲み出るかのような低い声で浅野が言った。嫌な予感がユリウスを襲う。


「署内の誰かが! 食べたんだよ! 本部長の御茶請けを!」

「なんですって……!」


 境島署きっての重大事案かはわからないが、事案である。本部長に出すはずのお菓子が、署内の冷蔵庫に入れておいたにもかかわらず全て食い尽くされてしまったのだ。

 ユリウスは呆然と空になった箱を見つめた。

 県警本部長が来署するまで、あと3時間。


 ――――――


 その3日前。

 道場で副署長の川嶋が署員達を見渡しながら訓示する。その顔はいつにもまして怖く、圧力すら感じられる。


「というわけで、新本部長が3日後の15時に視察に来ますんで、各署員はデスク周りの環境整備とロッカー前の整理をお願いします。それと地域のロッカー! 足の踏み場もねえぞ! ヘルメットやら装備品の整理しとけ! あと刑事! 証拠品倉庫何入ってんのかさっぱりわかんねえ! 今日明日で整理しとけよ! 以上!」


 若干めんどくさそうな顔でバラバラと署員達が解散する。

 ロッカー周りを片付けなければなぁ、と考えていると、後ろから声を掛けられた。


「ユリちゃん」


 振り向けば、煉瓦色の鱗に覆われた大きな体躯が間近にいて、思わずのけ反りそうになる。


「わっ、毒島部長どうしたんですか?」


 リザード族の巡査部長は悪い悪いと謝りながらユリウスの隣に並んだ。


「迷い犬の申報あったみたいでさ。〇〇セレモニーホールのとこ。ちょっと一緒に行ってくれない? 今日但馬班長夏休みだしさ」

「了解です」

「じゃ、境島2(パトカーの呼称)出しとくから宜しく。会計からリード借りて来てくれ」


 警察署では動物を扱う事もあるため、拾得物を主管する会計課などではリードや首輪を備えている場所も多い。拾得された動物を世話するのは、勿論署員である。

 ユリウスはすぐに支度をして、毒島の乗るパトカーへ向かった。


「リード借りて来た?」


 運転席のシートベルトを締めながら毒島が言ったので、ユリウスは頷いた。


「はい。一応首輪も……どんな犬なんです?」

「わかんない。加入(一般回線の申報)らしいけど、デカい犬だってさ」

「デカい犬……」


 ユリウスはゴールデンレトリバーかその辺りの犬種を想像した。


「じゃ、行くべ」

「了解です」


 パトカーはゆっくりと走り出し、青々とした田んぼ道を真っ直ぐに進んで行った。



 ――――――


 現場に着いた時、既に小さくはあるが野次馬が集まっていた。場所は大通り沿いにある葬祭場の駐車場である。人だかりの殆どは黒い喪服姿で、葬儀の参列者のようであった。


「あれ、人だかりできてますね」

「だな。向こうにいるのかな」


 二人は駐車場の端にパトカーを停め、人だかりの方へ向かった。


「すみませーん。境島署ですー」


 後ろから毒島がそう言うと、喪服姿の中年女性が気が付いた。


「あらっ! ちょっとアンタお巡りさん来たよ! よかったー。お爺ちゃんの葬式の途中であんなのが入って来ちゃってねー! もーアタシびっくりしちゃって!」


 興奮したように喋り続ける女性が指を指した先を見て2人は唖然とした。


「何アレ」


 そこには、成牛くらいの大きさの黒い犬が、腹を上に向けてイビキをかいていた。

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