第32話 誰がためにサイレンは鳴る 6

 交通課事故係の白川警部補は、真夏の日差しを忌々し気に仰ぎながら、つるりと禿げ上がった頭をタオルで拭った。

 先日の死亡ひき逃げ事故の現場は、土砂降りの発生時とはうって変わって、焼けつくほどのアスファルトに草刈り後のむせ返る様な青臭い匂いが立ち込めていた。既に制服の下はサウナ状態だ。彼は事故の見分を作成する為、事故処理車の中から大きいメジャーとバインダーを取り出して、事故現場の写真を撮っているはずの若い交通課員に声をかけた。


「ブンちゃん。メジャーそこから測って……あれ? ブンちゃーん?」


 ブンちゃんと呼ばれた三浦文吾(みうらぶんご)巡査は、田んぼの端っこに立って、何やら誰かと話していた。大きなゴミ袋に入った何かを見ながら話し込んでいるようだ。

 カメラ貸して、と言おうと白川がそちらへ歩いていくと、三浦が白川に気づいた。


「すいません班長、今、こちらの田んぼの持ち主の方が、田んぼに何か捨てられていたって持ってきてくれたんです」

「捨てられてた?」


 白川が持ち主の男性に向き直る。長靴に作業着姿の男性は「んだ」と頷いた。


「水の管理さ来たらよ、それが田んぼの中に捨てられてたんだ。誰か落としたんじゃねえがと思ってな。丁度お巡りさんが来たからいがったよ」


 男性は、作業に使おうとしていたゴミ袋にそれを入れて、警察に持っていこうかと思っていたらしい。そこに丁度白川たちが来たという事であった。


「なるほど。ちょっと、見てみますね」


 白川は袋を開けた。中は泥にまみれてぐちゃぐちゃであったが、辛うじて形でそれがスポーツバッグであると見て取れた。水分を含んでいるのを加味しても、かなりの重量がある。


「中は何が入ってるんでしょうかね」


 三浦が言う。白川は使い捨てのゴム手袋をはめて、壊れたファスナーを無理やり開けた。


「なんだこれ」


 二人は首をひねった。中には、ふやけた新聞紙がぎっしりと詰め込まれていた。


 ――――――


 始業時刻前にパトカーを洗車しながら、ユリウスは憂鬱な色を含んだ溜息を吐いていた。

 昨日コンビニで監視カメラの映像を確認した後、エルミラと共に得た情報を地域課長と刑事課長に報告したのだ。

 被害女性の認知症が進んでいて思うような証言を得られず、捜査員達も焦りを感じていた為、受け子らしき男と紹介屋の映像はかなりの収穫だ。

 事件解決に一筋の光が差した……はずだった。


「まさか、亡くなっていたなんて……」


 車体に付いた雫を黄色いタオルで拭きながら、昨晩の事を思い出していた。



「何ですって?」

「だから、死んでるんだよ。こいつ」


 コンビニで映っていたあのゴブリン族の男は、ユリウスと犬飼が先日事案の申報で会ったことがある為、身分証の氏名生年月日等をメモしていた。それを黒柳刑事課長に伝えると彼は「あちゃ~」と頭を抱えた。

 訳が分からず首を傾げていると、後ろから土井頭警部補が夜食のカップ麺を啜りながら「死んだぞ。そいつ」と言ったため、ユリウスは愕然とした。

 念の為面識があるという事で、黒柳はユリウスを連れて遺体安置場へ向かった。


 大型車なら2台ほど停められる広さの倉庫は、庁舎に入りきらない大きな証拠品や公用車のスペアタイヤが雑然と置かれており、時々ネズミか何かがカサカサと何かが音を立てているので、あまりユリウスは此処が好きではない。

 青白い蛍光灯がチカチカと倉庫内を照らすと、黒柳は真っ直ぐ奥にある大きな銀色の箱へ歩いていった。


「良かったよ。冷蔵庫空いてて」


 冷蔵庫というには扉が正方形で、引いて開ける為の取っ手しかない異様な雰囲気のそれは、遺体専用の冷蔵庫である。警察署には必ず設置されているが、署の規模によって台数が決まっている。ちなみに、境島署には2台しかないため、満杯だと別の警察署にお願いするしかないのだ。


 黒柳が冷蔵庫の取っ手を引く。驚くほどスムーズに静かに開き、一切の温度も感じさせない無機質なステンレスの台には、歪にゆがんだ小柄な遺体が乗っていた。頭は強い衝撃を受けたのか、無惨に割れて砕けたようになっている。予想以上に、酷い状態に言葉を失った。


「どう?」

「間違い……ありません。彼です」

「マジかぁ~。この人所持品なーんにも無いのよ」

「所持品が? 課長、これ、本当に轢き逃げなんですか?」


 黒柳は汗じみたワイシャツの胸ポケットから電子タバコを取り出そうとしていた所だったが、ユリウスの言葉に首を振った。


「受け子のいる詐欺の常套でね。受け子に金を騙し取らせてさ、その上のチンピラ共が受け子に金を持ってこさせる途中に襲って奪うってのがあんのよ」


 何故そのような事をするのか、ユリウスは全く理解できない。

 黒柳が庁内禁煙だと思い出したのか、口惜しそうに電子タバコを仕舞うと、また口を開いた。


「で、受け子は上役に金をとられたって素直に上に言うわけ。でも上役は許さない。もう一度別のカモから金騙し取って来いって脅す。勿論襲ったチンピラは上役と通じてるから金はあるの。でもそんな事知らない受け子はずーっと飼われ続けるっていうシステムなのよ」

「酷い……」


 基本闇金などで金を借り首が回らなくなった人間や、ホームレス等の【金の無い社会的弱者】が狙われやすい。犯罪組織や半グレ集団は彼等を「いいバイトがある」等と巧みな話術で引き入れ、遂には抜け出すことが出来ない深みへ陥れる。最悪の負の連鎖だ。


 でも今回はどうも違うみたいね~。と黒柳が遺体を眺めながら呟いた。


「今回は? 何故ですか」

「こいつがさ。腹の中に入ってたんだよ」


 黒柳は手持ちの青いバインダーに挟んでいた透明な袋を取り出す。中には小さなプレートが付いた鍵が入っていた。


「鍵が? 飲み込んだって事ですか?」

「さぁねぇ。まだ詳細は何とも。まあ、カメラの映像とこのオロク(遺体)が同一人物だってわかっただけでも収穫だわな」


 やれやれ、と黒柳のサンダル底がコンクリートの床に擦る音を聞きながら、ユリウスはステンレス台の遺体を見つめていた。




「おう、ユリウス!おつかれー」

「あっ!」


 昨日の事を思い出していると犬飼が出勤してきた。思考を引き戻されたユリウスは驚いて、足元に置いていたバケツが足に引っかかり、盛大に倒してしまった。


「あ、悪ぃ……」

「いえ! 大丈夫です! すみません」

「何だよぼーっとして。大丈夫か?」


 犬飼がひっくり返ったバケツを戻し、ユリウスを心配そうに覗き込んだ。漆黒の獣毛に覆われたワーウルフの先輩は、見た目に寄らず面倒見がいいのを、ユリウスは解っていた。


「この前犬飼部長と保護したゴブリンのホームレスを思い出してて……」


 すると犬飼は黒い耳をピクピクさせて「ああ、死亡ひき逃げの被害者なんだってな。気の毒に」としんみりと言った。

 本当は捜査に参加したかった。だが地域課に属している以上、通常の勤務に支障をきたすわけにはいかないし、応援の打診が来てもいないのに勝手に動く訳も行かない。警察官というものは存外に窮屈なものである。


「そういえば犬飼部長、今日勤務でしたっけ?」


 勤務表には、犬飼は今日非番だったような気がしていた。その言葉に犬飼は盛大に肩を落とした。


「昨日電話があってさー。急遽キャンペーン行けだって。特殊詐欺のティッシュ配り。あそこのスーパーで」

「それは……大変です」

「大変だよ……」


 意気消沈した犬飼を慰めようと考えていた時、庁舎の一階の窓からユリウスを呼ぶ声が聞こえた。地域課のデスクの係長である。


「おーい! ユリウス! 今日の勤務変更! 午後から特殊詐欺防止のキャンペーン行って!」

「えっ!」


 まさかの勤務変更。ユリウスが思わず大きい声を上げたのと同時に、傍らで犬飼が「へへ、よろしくね~」と笑った。




「特殊詐欺撲滅キャンペーンでーす」


 犬飼の野太い声が昼下がりのスーパーに響く。買い物客は190センチのワーウルフの迫力に圧倒され、遠巻きにそれを恐る恐る眺めるだけだ。


「何で誰も寄って来ないんだよ」


 むっすりと犬飼がポケットティッシュを手にぼやく。「まあまあ」と、犬飼とは対称的に順調にチラシ類を配布するユリウスが宥めた。


「あれ……?」


 もうやってらんねー!といじけ始めた犬飼を他所に、ユリウスは店内の休憩スペースで見覚えがある人影を見た気がした。

 シルバーカーにざんばらの白髪。白い杖。

 ユリウスはぶつぶつ文句を垂れていた犬飼に「ちょっと、お願いします」と言い置いて、店内へ向かった。


「ニシオカさん!」


 ニシオカは殆ど見えていない眼で、ユリウスの居場所を探るように顔を向けて、ニコニコと笑った。


「こんにちは。最近アンタが来ないからここまで来たよ」


 やはり記憶が混濁しているのか、ユリウスを誰かと間違えている。一か八か、ユリウスはそれに賭けてみた。


「ごめん。お婆ちゃん。俺、何処に行けばいいか忘れちゃってさ」


 すると、ニシオカはころころと笑った。


「やだよアンタ。アタシより若いのにねぇ。言ったじゃないか。【ココで待ってて。迎えに行く】って。迎えに来てくれたんだろ?」


 ニコニコと話す彼女の言葉の意味が最初分からず首をひねっていたが、ふと壁際に視線を向けた時、その疑問は吹き飛んだ。


「あ……」


 ユリウスは、【彼】が最期に何をしたのか、完全に理解できたような気がした。



 ――――――


「開けます」


 スーパーの支店長の立ち合いの元、刑事課鑑識係長の土井頭、そして他数名の捜査員が、ユリウスの手元に注目していた。

 コインロッカーのカギは、駅やバスターミナルに設置されている物ではなかった。

 スーパーの休憩スペースに設置されていたものだ。

 流石に、刑事課もそれは盲点だったらしい。

 かちゃり、と軽く鍵が外れる音がして、コインが戻ってくる。取っ手を掴み、扉を開けた。


「やっぱり……」


 それを見て、ユリウスは嘆息した。中には、新聞紙などの古紙を捨てるための紙袋が入っていた。ニシオカの家で見たものと同じであった。紙袋は膨らんでいて、中に何かが詰め込まれているようだった。

 ユリウスは手袋をしたままそれを取り出して、床に置いた。


「すごい……」


 支店長が小さく呟く。無理もない。中には大量の札束が詰め込まれていたのだ。札束の数を数える。丁度、引き出された金額と同額だった。


「よし、写真撮れ。中身が見えるように。そうだ」


 土井頭の一声で、若い捜査員達が色々な角度から写真を撮る。ユリウスはロッカーの中にまだ何かが入っているのに気が付いた。


「まだ、何か入ってます……」


 ノートの切れ端のように見えた。破き方がかなり乱雑で、くしゃくしゃになっている。それを手に取ると、胸になんとも言えない、苦いものがこみ上げてきそうになった。


 紙片にはたどたどしい日本語でこう書かれていた。


 ―――ごめんなさい ごめんなさい わたしとても わるいひと。 おばあさん ごめんなさい。やさしくしてくれてごめんなさい。おかね かえします これ みたひとはおかねかえしてあげてください ごめんなさい。



 ――――――


 捜査2課と特殊詐欺対策室までも巻き込み、境島署に大きな波乱を呼び込んだこの詐欺事件は、紹介屋の男が他管内のパチンコ店で傷害事件を起こして逮捕されたことで驚くほどあっけなく、そして後味の悪い結果となった。

 紹介屋の男は、あくまでも自分はバイトだと主張し、受け子を使い詐欺を行ったと大筋では認めてはいたが、その後の死亡ひき逃げ事件には関与していないと主張した。

 現在、紹介屋の男の背後関係と、死亡ひき逃げの被疑車両の特定を急いでいる。

 検死の結果、ゴブリン族の男性は生前に酷い暴行を受けており、死後に車に轢かれたと分かった。

 交通課の白川警部補が預かったスポーツバッグは、持ち手の切れ端と照合した結果、男性が持っていたものと断定された。

 男性は既に死亡しているが、詐欺事件に関与したとして被疑者死亡のまま書類送検される予定である。



 庁舎裏の休憩所の古びたベンチで、青い空にかかる入道雲をぼんやり見つめながら、ユリウスはひどく落ち込んでいた。

 もしもあの時、あのコンビニの駐車場で、ゴブリン族の男性に違った対応をしていたら。何か変わったのではないか。善良な女性は金を騙し取られることはなく、彼も悪の道に足を踏み入れ、あまつさえあんな最期を遂げることはなかったのではないかと。


 今回ユリウスが金を発見した事になっているが、自分の功績などではない。彼が守ったものだ。

 住む場所も仕事もなく、明日を生きる為に犯罪を犯したのだろう。だが、目の不自由なニシオカに世話を焼きその優しさに触れ、現金を上役に持っていく直前で、彼に心境の変化がおきたのかもしれない。

 咄嗟にスポーツバッグに彼女の部屋の新聞紙を詰め込み、代わりに現金を紙袋に入れ、彼女がよく行くスーパーのコインロッカーに預けた。


 そして、小さなやせ細った体で、酷い暴力に耐えながら、最期の気力を振り絞って、ロッカーの鍵を飲み込んだ。

 彼は、どんな風にあの手紙を書いたのだろうか。最期に何を願っただろうか。全てを憎んだだろうか。今となっては誰にも分らない。全ては生きている自分の推論でしかない。

 腹が立つほどに澄んだ青い空を見上げながら、呟いた。


「僕、何で警察官になったんだろう」

「何だ、センチメンタルか?」


 独り言の筈なのに、返事が返ってきてユリウスは驚いて身体をびくつかせてしまった。振り返れば、いつもの青い作業着姿の土井頭が、自販機のボタンを押しているところだった。

 がこん、という音が2回して、土井頭は両手に持った缶コーヒーの片方をユリウスに「ほら。おごりだ」と差し出しながら、ベンチに腰掛けた。


「ありがとうございます」

「あの件、まだ引き摺ってんのか」


 ユリウスはちょっとだけ眉尻を下げて頷いた。土井頭がぺきり、と缶コーヒーの蓋を開けて「そうか」とだけ言った。

 さわり、と夏の風が二人の間を吹き抜ける。


「俺がまだ新人で交番勤務だった頃だ。4歳くらいの小さな女の子がぬいぐるみだけ持って歩いてたのを保護したことがあってな」


 独り言のように話し始めた土井頭の方を見た。苦い過去を思い出すような、そんな表情だった。


「何にも話さないから、近所の婆さんが持ってきたどら焼きをあげたんだよ。そしたら物凄い勢いで食い始めて」


 ――よく見れば、スカートも長袖も靴も薄汚れていて、口元に痣があった。俺は虐待じゃないかと思い始めた。生憎、他の勤務員は出払っていて、俺一人で判断しなければならなかった。

 俺は市役所の児童福祉課と児相に連絡するように本署の生安にお願いした。だが、すぐにこの子の母親と名乗る女が来たんだ。


『すみません。すみません。すぐに連れて帰ります』


 ――女の子は無表情だったが、その女が来ると「おかあさん」と飛びついた。母親はやつれていたが会話も態度もまともで、親が子供を明確な意思を持って迎えに来て、子供がそれを望んでいるなら、俺達は従わざるを得ない。まだ、児童虐待防止法や、DV防止法が確立してなかった時代だ。俺達が出来る事はかなり限られていた。

 ――どこか切羽詰まった様子が気になって身分証の氏名と住所、連絡先を控えて、日を改めて巡回連絡に行こうと考えていたその日の夜だ。交番の受け持ち区で飛び降りが発生した。あの親子だった。無理心中だよ。母親は酷いDVを受けてたんだ。


「俺は自分を責めた。もしあの時、俺があの親子に何かしてやれたら、あの母娘は死ななかったんじゃないかって」


 土井頭の苦し気な表情に、ユリウスは言葉が出なかった。正に、今の自分と同じだった。


「そしたら、そん時の指導部長だった黒柳課長がな。怒鳴ったんだよ」


 ――てめぇ、神サマにでもなったつもりか!バカ野郎! 起きちまったことはどうしようもねぇ! 俺達の仕事は殆どがそんなもんだ! 悩んでる暇があれば捜査しやがれ! 捕まえるべき奴を全力でしょっ引け!


「俺はどうにか刑事課と生安に掛け合って、父親を暴行罪で逮捕するところまでこぎつけた。だが、不起訴になっちまった。検察は母子が死亡している事を理由に起訴しなかったんだ。あれ以上の悔しさと虚しさはなかったね」


 不起訴になれば、捜査員達の今までの捜査は全て無駄になる。被疑者は釈放され、自由の身だ。


「俺らの仕事は、全部が全部丸く収まるわけじゃねえ。時にはもっと酷いと思う時だってあるかもしれない。でも、俺らがやってる事は無駄じゃない。誰に何を言われようと、信念だけは曲げんなよ」

「……はい」


 ユリウスは頷いた。手の中ですっかりぬるくなってしまったコーヒーの蓋を開け、一気に飲み干した。

 いつもより苦いコーヒーの味が、いつまでも舌の上に残っていた。


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