六十六夜 月の歌なんて聞こえませんから

 満月の月明かりが、大広間を満たしていた。梁がむき出しになった天井。そこに設置された複数の天窓から、月明かりが室内を照らす。

 それ以外の明かりは存在しなかった。

 あおいは天窓から差し込む月明かりの下に立っていた。横には紫雲しうんの姿がある。


「目を閉じて耳をすませてみてください。一度でも月の歌を聴けたのなら、また聴けるはずです」


 紫雲の言葉に葵は素直に目を閉じる。


「月光を溜めた月長石ムーンストーンがあると良いのですが、残念ながら用意できませんでした。しかし今宵は満月。歌を聴くには充分です。そして歌に身を任せれば〝月の贈り物ギフト〟を得ることもできるでしょう」


 葵は目を閉じたまま何も言わない。こうして月光に身をさらしても歌は聞こえてこない。葵が月の歌を聞いたのは四年前が最後だ。彼女が虎児とらじと出会うきっかけ、そして〝月を喰らいし者エクリプス〟に入るきっかけとなった事件があった四年前。

 いまは聴こうとしても、聴くことはできない。なぜなら彼女はその事件の時に月を拒絶したのだから。


『虎児サンが敷地内に入ったよ。もうしばらく我慢して』

 代わりに聞こえてきたのは、宗弥そうやの声だ。メガネに仕込まれた骨伝導イヤホンから流れてくる声。その声は紫雲には聞こえない。


「……たちばなさん、あなたは本当に月の歌を聴いたことがあるのですか?」


 何も変わらない葵の様子に痺れを切らしたのか、紫雲が声をかけてきた。


「はい。随分と昔ですが、確かに」


 葵は目を開けて紫雲を見る。

 紫雲が何か言いかけた時、大広間の入り口にある引き戸が開かれた。紫雲がそちらを見る。


「おんどれをしばきに来たで」

「まさか、満月の夜にやって来るとは思いませんでした。それも堂々と」

「ワイはまどろっこしいんが嫌いや」


 虎児が大広間へと土足で入ってくる。紫雲はそれを見て眉をしかめた。


「〝月を喰らいし者エクリプス〟は粗雑で下品な者が多いですね。所詮は〝月の紛い物フェイク〟か」

「ワイはしばく前に話ぐらいは聞くで?」

「話を聞く……ですか」紫雲が鼻で笑う。「問答無用で他人の命を奪う輩が、話を聞くとは酷い冗談だ」

「〝月を喰らいし者エクリプス〟にそういうんがおるんは認める」

「まるで、自分は違うとでも言いたげだな」


 紫雲の声にわずかだが苛立ちが混じった。口調もやや乱暴になる。


「……おんどれの家族の話は聞いた。ワイは〝人〟を巻き込むんがいっちゃん嫌いや。それは〝月に捕らわれし者ルナティック〟やろうが〝月を喰らいし者エクリプス〟やろうが、関係あらへん」

「誰から聞いた?」紫雲の声が低くなる。「ああ、お前は〝月を喰らいし者エクリプス〟だったな。聞いたか? 私の娘を、妻を殺した男に。あの盲目の坊主に」

「盲目の……坊主?」紫雲の言葉に虎児が反応する。「まさか、おんどれの家族を殺したいうんは、風眼坊ふうがんぼうか?」

「風眼坊? 名前なぞ知らんよ。突然家にやってきて娘と妻を殺し、私を切り裂いて去っていった」

「……そいつは風使いやなかったか?」

「風使い? ああ、そう言えば切り裂かれたのに刃物は持っていなかったな。そうか、やはりあの坊主から聞いたのか!」


 能面で隠された右目の辺りに光りが灯る。紫雲の右手に炎が生まれた。

 それを見た瞬間、葵が動いた。


「葵!?」


 虎児が叫ぶ。

 葵は紫雲の右腕、肘の内側を押さえた。そして後ろ襟を左手で掴み、体を後退させながら掴んだ襟を引く。思わずバランスを崩した紫雲の膝の後ろを蹴り、そのまま床に引き倒す。

 突然のことに紫雲の炎が消えた。


 葵は尻餅をつくように倒れた紫雲を素早くひっくり返して俯せにする。俯せになった紫雲の背中に膝を乗せ、彼の右腕を引き伸ばした。

 その腕に自分の体を添えるように当て、葵の左手で紫雲の肩口を上から押さえる。そして棒のように伸ばした紫雲の右腕を、肩の可動域の限界まで動かした。


「くっ。橘……さん?」


 取り押さえられた紫雲が、苦しそうに言う。


「すみません紫雲さま。あたしは〝月を喰らいし者エクリプス〟です」

「では、あの男の言ったことは……」

「教団に潜入するための嘘です。あたしは月の歌なんて聴けません。月なんて大嫌いですから」

「そうか、そうですか。ふははは。私はすっかり騙されていたわけだ」


 突如、紫雲は笑い出す。


かつらさんが現れ、あなたが現れて、私は少し舞い上がっていたようだ。娘の仇だというのに」


 紫雲の周囲の空気が熱を持ち始めた。異常を感じ、葵は素早く紫雲から離れて距離を取った。

 紫雲はゆっくりと立ち上がる。


「そもそも、私の見通しが甘かった。数で対抗しようと考えるのが間違っていた。紛い物に頼ろうとした私が間違っていた。

 〝月を喰らいし者エクリプス〟を滅ぼすのなら――すべて焼き尽くしてやればいい!」


 紫雲の体を炎が覆い始めた。両手から腕へ、肩へ。両足から膝へ、腰へ。炎が走っていく。紫雲の足元の床が燃え始める。


「まずい、外に出るで」


 虎児が葵の前に出る。葵は入り口へと向かった。


「ああ、そウだ。すべテ燃やしてしマえばいイ。娘の仇ガいるノなら。スベテ、スベテ!」


 葵たちは大広間の外へと出た。渡り廊下には深山しんざんの姿があった。


はなぶささんは?」

「話は後や!」


 刹那、背後で爆発が起こった。大広間から激しい熱気と風圧が葵たちに迫ってくる。

 それを認識したと同時に、葵の視界は闇に覆われた。自分の体が宙に浮いたのを感じる。衝撃が襲ったのはその三秒後。だが、思ったような痛みはない。

 気づくと葵は、二メートルはあろうかという人型の虎に抱えられ、地面に転がっていた。


「先輩」

「おう。葵、大丈夫か?」


 人型の虎――獣化した虎児が、起き上がって言う。見ると、葵だけでなく深山も虎児に抱えられて爆発を逃れていた。深山は地面に横たわったまま、気を失っている。

 大広間の方を向く。そこにはもう建物はなく、燃える柱と壁の名残があるだけだった。爆発の勢いは母屋をも襲い、炎の餌食となっていた。

 大広間のあった場所には人型の炎となった紫雲が立っている。


「先輩、その背中!」


 獣人となった虎児の背中。そこは焼けこげ、飛んできた破片もいくつか刺さり血を流していた。


「大丈夫。まだかすり傷や」


 紫雲が葵たちの方を向いた。


「お父さま!」


 その声に葵が振り向いた。百合ゆりが走ってこちらに来ている。その後ろからは紅葉くれは佳乃よしのの姿が見えた。

 百合は葵たちの所へ辿り着くと、気を失っている深山の側に座りその体を揺する。深山がうめいて目を覚ました。


「お父さま!」

「百合か」

「何が起きたの?」


 葵たちの所へ辿り着くなり、紅葉が言った。


「お前ら、まだおったんか。佳乃を連れてはよね言うたやろ」

「何があったの?、虎児!」


 佳乃に名前を呼ばれ、虎児が虎顔の口を、あんぐりと開ける。


「佳乃。記憶が戻ったんか!?」

「ええ。で、何があったの?」

「おま――」

「何があったの?」

「……あいつや。紫雲が〝月の贈り物ギフト〟を使こうたんや」


 有無を言わさない佳乃の口調に、虎児が素直に答える。そんな虎児を葵がじっと見つめている。


「何あれ。炎で全身を覆ってる?」


 紅葉が紫雲を見て言う。


「燃エロ!」


 紫雲が腕を振った。大きな炎の塊が虎児たち目がけて飛んで来る。

 突如、目の前の地面から木の根や蔓といったものが飛び出して壁を作った。炎の塊が植物の壁に当たる。

 植物の壁は炎の攻撃を防いだが、同時に燃やされ消滅してしまった。


「こら、えぐいな。こないだのは、かなり手加減しとったちゅうことかいな」


 虎児は最初に紫雲と会った時のことを思い出して言った。あの時、紫雲は規模は違うが炎を打ち出してきた。虎児はそれを獣化した腕で防ぐことができた。

 しかし先ほどの炎は、完全に獣化した虎児でもダメージをくらうだろう。


「今夜は満月だしね」


 紅葉が言う。〝月に捕らわれし者ルナティック〟は月の歌により〝月の贈り物ギフト〟を受け取り、その力を行使する。そして月の歌とは月光そのものだ。だから〝月に捕らわれし者ルナティック〟は満月になるほどその力を増す。

 ならば紫雲の力も、今が一番強いということになる。

 辺りが騒がしくなった。宿坊で寝ていた信者たちが、起きて外に出てきたのだ。


「こらマズイな。佳乃。お前らはそこの嬢ちゃんと信者らを避難させれ」

「虎児?」

「さっきのを見たやろ。お前の〝月の贈り物ギフト〟はあいつとは相性が悪い。それにこない〝人〟がぎょうさんおったら、思う存分戦えへん」


 虎児の言葉に、佳乃は何も言い返せない。紫雲相手では自分の〝月の贈り物ギフト〟が不利なことは理解していた。


「……わかったわ、百合さま。まずはここを離れましょう」


 佳乃と百合が深山を抱え、信者たちの方へと向かう。


「葵。お前も行け。信者に顔を知られとるから、誘導しやすいやろ」

「嫌です」葵が即答する。「先輩だって相性悪いでしょ? 先輩ひとりでどうするつもりだったんですか?」

「そらまぁ、とりあえず殴るやろ」

「炎を殴るんですか?」

「気合い入れたら火ぃくらいは消せる。これでも正拳突きで蝋燭の炎消せるねんで?」


 当たり前のように言う虎児に、葵がため息をついた。


「蝋燭の火とあいつのを一緒にしないでください。とにかく、あたしの力なら先輩のサポートができます」

「そらまぁ」

「先輩は、あたしがいないとダメなんですから、ここは後輩の言うことを素直に聞いてください」


 葵と虎児のやりとりを聞いていた紅葉がくすりと笑った。虎児が紅葉に気づいて驚く。


「なんや女狐。佳乃と一緒に行かへんかったんか?」

「わたしの〝月の贈り物ギフト〟はバカ猫の毛皮と違って燃えないから」


 チョーカーの月長石ムーンストーンが輝き、紅葉の瞳が赤く染まる。下げた右手に月光が集まった。それは長く伸び、紅葉の手に光で出来た斧槍ハルバートを生み出す。


「お前、手伝わへん言うとったやろ」

「あんたに借りを作りたくないのよ」

「どいつもこいつも、勝手にせぇ」


 紫雲が炎を飛ばしてくる。三人は同時に飛んでそれを避ける。


「葵、どれくらいいける?」

「今夜は満月ですから……三分くらいです」

「充分やろ。女狐! 悪いが葵があいつに近づくのをサポートしたってくれ」

「いいけど……どうするつもり?」

「近づいて、あいつの炎を無効化します」


 そう言って葵はメガネを外し、それを地面に投げた。彼女の胸のあたりに光が灯る。


「え? それ……月長石ムーンストーンの……月光?」


 紅葉がそれを見て驚く。葵の胸に灯った光は、紅葉や佳乃が月長石ムーンストーンから取り出す月光にそっくりだった。紅葉は葵を見ても〝月に捕らわれし者ルナティック〟特有の雰囲気を感じなかった。なのに彼女は紅葉たちと同じ月の光を使おうとしている。

 葵の胸に灯った光の中に突如、満月の夜空のように蒼黒あおぐろい点が現れた。蒼黒い点は光を押さえ込むように広がり始める。やがて二色はお互いを飲み込もうと、葵を中心に渦を巻き始めた。


 そして太極図のような形になった瞬間、二色の爆発が起きた。

 全てが消え去ったあと、そこには葵が立っていた。

 葵の顔、上半分を覆うように猫の仮面があった。仮面の右半分は月白げっぱく。左半分は蒼黒そうこく。ハーフサイダーのように綺麗に二色に分かれていた。葵の後ろに見えるのは尻尾か。それは月白げっぱく蒼黒そうこくにわかれた二叉の尻尾だった。


「あなた……わたしたちと同じ……」

「いいえ。あたしには月の歌なんて聞こえませんから」

「葵。女狐。行くで!」


 驚く紅葉をよそに、虎児と葵が駆け出した。

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