六十四夜 年の功よ、お嬢ちゃん
『
「ええ。これ、便利ね」
紅葉は耳につけたイヤホンに軽く触れる。来る前に、
彼女はいま、教団の施設がある門の外に立っていた。空に浮かぶは十五夜の月。今夜は満月だった。
門の前には紅葉ひとり。
『少し待ってれば、
宗弥の言葉が合図だったかのように、門の横にあるくぐり戸が開いた。中から日本人形を思わせる、整った顔立ちの少女が顔を見せた。
「あなたが百合さん?」
「ええ。あなたが紅葉さんね。どうぞ」
紅葉は敷地の中に入る。それから改めて百合を見た。
切れ長の目が紅葉を見つめ返している。綺麗に切り揃えられた肩までの黒髪。外見は十三歳の少女だ。だが彼女の持つ雰囲気は遙か年上の女性のそれだった。紅葉よりも上の。
「男の人は来ないの?」
「バカ猫なら葵って
「バカ猫?」
「あいつ、虎に獣人化するの。だからバカ猫」
紅葉の言葉に、百合はくすりと笑った。そんな百合を見て、紅葉は確信する。彼女は月に捕らわれていると。
だがその雰囲気は自分たちとは少し違うとも感じていた。
「そう。バカ猫さんは
そう言った百合は、何故か嬉しそうだ。
紅葉は百合の後について教団の敷地内を進む。満月の月明かりが降り注ぐ中、二人以外の姿はなかった。
「てっきり見張りがいると思っていたのだけど」
「ええ。見回りの指示も、
「……ここに来るまで、あなたたちのことは全然知らなかった。月の歌が聴ける人たちの里があるなんて」
「この里で
百合の言葉を聞いて紅葉は思う。もし
「それでも、この時代までよく隠し通せたものね。隠れ住むって、どんな感じ?」
「あら、興味あるの?」背中越しに百合が問う。
「わたしたちね、根無し草みたいな生活をしてるの。こんな体でしょ? 一カ所に長くいられないから。人のいない場所で暮らさないかって。佳乃と話たことがあって……」
「あなたたちみたいに便利なものに慣れてると、大変よ?」
「覚悟は……してるわ」
「そう。ならここに残る?」
百合は足を止めて、振り返る。浮かべた表情は悪戯っぽいが、瞳は真剣だった。
「え?」
「〝
「
「信頼しているのね」
「……信頼しているのはあいつじゃないわ。わたしは佳乃を信頼しているの。そして佳乃は
そう。紅葉が信頼しているのはあくまで佳乃だ。自分の
だが、いま彼女は記憶を失っている。佳乃は自分のことを覚えていないのだ。その事実が紅葉を不安にさせる。紅葉は思わず、チョーカーについた
紅葉を見ていた百合が、急に無表情になった。
「百合……さん?」
百合は確かに紅葉を見つめていた。しかしその目はどこか遠くを見つめているようだった。そしてその瞳は凪いだ湖面のように静寂で澄んでいた。
すぐに百合の顔に表情が戻る。
「大丈夫。桂さんはあなたのことを思い出すわ」
「なっ!?」
心の中を見透かしたような百合の言葉に、紅葉は絶句する。
「なんでって思った? 年の功よ、お嬢ちゃん」
少女のような笑顔で言って、百合は再び歩き出す。呆然としていた紅葉は、我に返って百合の後を追った。
☆
虎児は塀を跳び越えて敷地内に侵入し、ひとり本殿の方へと向かっていた。葵のメガネから送られてくる映像で、敷地内の建物の配置はおおよそ理解している。
虎児は本殿に近づくと、玄関には向かわずに裏手へと回り込んだ。母屋の裏には離れのように渡り廊下で繋がれた大広間がある。廊下は屋根のみで壁はなく、外から簡単に
母屋と大広間の間、渡り廊下の途中に人が立っているのを見つけ、虎児の足が止まった。
「あなたが〝
満月の月明かりの中、渡り廊下に立つ男――
「……
虎児がゆっくりと深山に近づいていく。渡り廊下は地面より八十センチくらい高い。近づいて虎児は深山を見上げた。
「いいえ。あなたを止めるような力は、私にはありません。ただ、私はあなたと話をしてみたかったのです」
「話? そないな暇あらへんで」
虎児は渡り廊下に飛び乗った。大広間を背にして深山を隙なく見つめる。深山も虎児を見つめ返してくる。
「
「なんや。話なんぞ聞かんでも、すぐに会えるやろ」
そう言って、虎児は顎で大広間を示して見せた。そして深山から敵意を感じないことを確認し、背を向けて大広間へと進む。
「英さんは、〝
深山の言葉に虎児は足を止めた。
「最初に月の歌を聴いたのは、娘さんだったそうです。娘さんを狙って来たのだと」
「…………なにが言いたいんや?」
虎児は背中を向けたまま深山に問うた。
「百合たちから、英さんのしたことは聞きました。それは決して許されることではないでしょう。でも、彼の命までは奪わないで貰えませんか?」
「なんでおんどれが、そないなこと頼むんや?」
「私にも娘がいます。もしその命が奪われたなら……そう考えるだけで恐ろしい。もし英さんの今までの行動が、妻子を殺された復讐を考えてのことなら、私は彼を否定することができないのです」
深山の声はあくまで落ち着いている。虎児は目を閉じて、拳を握りしめた。
「ワイはな〝
せやから娘と奥さんを殺されたちゅうんは同情する」
「では……」
「けどあいつは、〝人〟に手ぇを出しよった。ワイは〝人〟を巻き込むんがいっちゃん嫌いや。〝
虎児は目を開け大広間に近づき、引き戸に手をかける。
「……けどまぁ、しばく前に話くらいは聞いたるわ」
そう言って虎児は引き戸を開けた。
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