六十三夜 今回は賑やかだなぁ
「桂……
葵の呼びかけに、桂が振り向いた。葵の姿を認め、微笑んでみせる。
「
「橘でいいです」
「ならわたしも桂でいいわ。佳乃って呼ばれ方、慣れないの」
柔らかい表情を浮かべて桂は言った。葵は彼女を見つめる。桂の持つ雰囲気は随分と落ち着いた、大人の女性のそれだ。
外見だけなら自分と同じくらいに見える。けど桂は虎児の幼なじみであり、実年齢ならば四十を越えているのだ。
「桂さんは……なぜ黙っていてくれたのですか?」
葵が訊く。桂は〝
なのに桂は葵のことを
「一つは、虎児さんだっけ? あの人と紫雲さまの話を聞いたせいね。
わたしは事故にあってこの教団に拾われたわ。だから紫雲さまのことを信頼していた。あのとき、それが揺らいだの。でも――」
葵は黙って桂の言葉を待つ。
「本当の理由は違うかもしれない」
「違う?」
「わたしね、なんとなく懐かしかったのよ。虎児さんに庇われたとき、子供の頃に同じことがあった気がしたの。わたしを守ってくれた背中があった気がね。だから、あなたのことを〝
そう言った桂はどこか吹っ切れたようだった。
「桂さん。明日の晩、また先輩が来ます。今度は紫雲と決着をつけるために」
「……そう」
「そして、もう一人、あなたに会いたがっている女の人を連れて来るそうです。
「……紅葉」
「桂さんはその
桂は「紅葉」と何度も名前を呟く。そして痛みを感じた時のように、微かに眉をしかめた。
「桂さん?」
「ごめんなさい。最近、頭痛がね。よくするの。わかったわ」
「では、明日の晩、またここに来てください」
それだけ言うと、葵は桂に背を向け、本殿の方へと向かう。
「これでいいですか?」
葵は誰にともなく呟いた。
『うん。バッチリだよ。……こっちはちょっと騒がしいけどね』
メガネに仕込まれた骨伝導イヤホンから、
「橘さん」
本殿に近づいた時、葵は呼び止められた。声のした方を向くと、そこには紫雲の姿があった。葵の体に緊張が走る。
「紫雲さま、どうしましたか?」
表情に不自然さが出ないよう意識しながら葵は答えた。
「一人で行動しないように……と言っておいたはずですが?」
「すみません。敷地内であれば大丈夫かと思っていたので」
「狙われているという自覚を持ってください」
紫雲の口調は少し厳しかった。能面に隠されていない左側の目が葵に向けられている。
「すみません」
「明日以降の〝月の癒し〟が中止になったことは聞きましたか?」
「はい」
「では明日の晩、大広間まで来てくださいませんか?」
「明日の……晩?」
葵の背筋が冷たくなった。わざわざ明日の晩を指定してきたということは、葵たちの計画が気づかれたのだろうか。
「何か用事でも?」
「いいえ」
葵は紫雲を見る。紫雲も見返す。彼の表情から内心は伺い知れないが、少なくとも葵を疑っている様子はない。
「ではお願いします。〝
虎児との関係に気づいたわけではないとわかり、葵は内心ホッとする。しかし彼女を大広間に呼びつける意図がわからない。
思い浮かべた葵の心の声が聞こえたかのように、紫雲が言葉を継いだ。
「幸いにも明日は満月。あなたには〝
☆
『幸いにも明日は満月。あなたには〝
ノートパソコンから聞こえて来た声に、宗弥の後ろで言い合いをしていた虎児と紅葉の動きが止まった。
「なに? あの
紅葉が画面を見て言う。ノートパソコンの画面には口元を除く顔の右半分を能面で隠した男――紫雲が写っていた。
「あいつはちぃと特別や。どっちか言うと〝
「ふーん?」
紅葉は一度見た葵の顔を思い出す。外見の年齢だけなら、紅葉や佳乃と同じくらいに見える。画面越しに見た葵には、月に捕らわれている者特有の雰囲気というものは感じなかった。
「だけど、ちょっとマズイね」宗弥が虎児の方を向いて言う。「紫雲が何をする気かはわからないけど、葵チャン一人だとさすがに」
「せやな。逃げるだけならなんとでもなるやろうが、ここまで来て
「わたしは手伝わないわよ?」
「そんなんわぁとるわ。お前は佳乃と合流して、とっとと
「そりゃ、構わないけど……」
紅葉は意外だといった表情で虎児を見る。その視線に虎児が気づいた。
「なんや? いまさら騙したりせぇへんわ。宗弥やったらちゃんと案内してくれる」
「……そうじゃないわ。あなた少し変わった? いえ、変わってないのかしら」
「どっちやねん」
「葵って
「虎児サンは葵チャンに対し、過保護だからね」
「宗弥、お前は黙っとれ。葵は大事な後輩やし。……佳乃のことは別や」
「そうね。昔っからあなたはそうだった。自分のことよりも
虎児を見つめる紅葉の視線に敵意はない。古い友人を見るときのような表情を浮かべている。虎児はそんな紅葉を見て、開きかけていた口を閉じた。
それを見て紅葉が急に悪戯っぽい表情になる。
「でも案外、娘が出来てバカ猫も変わったのかもね」
「あはははは」
「はぁ!? 何言うとんねん、ワレ!」
紅葉の言葉に宗弥は笑い、虎児は嫌そうな顔をする。
「あら、違った?」
「当たり前や。いくらなんでも葵みたいな娘がおる歳やないやろ」
「そう? じゃあ佳乃によく言っておかないとね。随分年下に手を出してるって」
「なんでそうなんねん!」
「だってあの
「それ言うたら、お前かて歳変わらへんやろ。ワイどころか葵より若こう見える分、タチ悪いわ。ワイがスケベオヤジやったら、お前は若作りのババァ……いや、近頃はロリババァ言うんやったか?」
「なんですって!? バカ猫あんたねぇ」
「…………ホント、今回は賑やかだなぁ」
再び言い合いを始めた虎児と紅葉を見て、宗弥はどこか諦めたような笑いを浮かべた。
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