六十夜 桜とおんなじ名前でもええやん

「なんや、その……あれや」


 あおいが去った後、しばらく虎児とらじかつらも喋らなかった。沈黙に耐えきれず、虎児が言葉を紡ぐ。だがそれは意味をす言葉にはならなかった。

 そんな虎児の様子を見て、桂はくすりと笑った。


「わたしはその、佳乃よしの……さんなのですか?」


 遠慮がちに桂は言った。


「ああ。間違いない。ワイが佳乃を見間違うはずはない」

「仲が良かったのですね」

「あ、いや。さっきも言うたけど、幼なじみやったさかいな」

「わたしはどんな人間でしたか?」

「頑固やった」

「え?」


 虎児の言葉に桂はきょとんとした顔になる。


「ワイの知っとる佳乃は、せっかちで頑固なオンナやった。ほんで友達思いの優しいオンナやった。友達のために〝月に捕らわれし者ルナティック〟になってしまうほどに」

「あなたは――」

「ちゃう。その友達はワイやない」


 桂が問う前に、虎児は答えを話す。


「オンナ友達や。そのオンナと二人で、佳乃は『玉桂たまかつら』ちゅう店をやっとった。街を転々としながらな」

「玉桂! お店の名前だったんですね」


 桂の言葉に虎児は頷いてみせる。そして虎児は話し始めた。自分と幼なじみの佳乃とのこと。紅葉くれはという女性のこと。そして自分は〝月を喰らいし者エクリプス〟であること。

 それを聞いたとき、桂の表情が固まった。


「虎児……さんは、わたしを……」


 言いよどんだ桂に、虎児は首を横に振ってみせる。


「それもちゃう。ワイはお前を取り戻すために〝月を喰らいし者エクリプス〟に入ったんや」

「わたしを……取り戻す?」

「まぁ、お前にフラれてばっかりやけどな」


 そう言って虎児は苦笑した。


「とにかく、お前は染井そめい佳乃よしのや。ガキの頃、お前が嫌いや言うてた名前や」

「嫌い? 名前をですか?」

「おう。お前はガキの頃、かぐや姫みたいに月に帰ると思うとった。せやからソメイヨシノなんて桜と同じ名前は嫌や言うてたんや。毎年同じ場所で咲き続けて、ずっと地球におらないかんみたいや言うてな」


 そう言って虎児は懐かしむように笑う。

 ――桜とおんなじ名前でもええやん。ワイは好きやで。


「え?」


 桂の脳裏に、声と顔が浮かんだ。それはまだ幼い少年の姿をしていた。なのになぜか、目の前の男の顔と重なる。


「っ!」


 桂は頭にズキリとした痛みを感じ、思わず手を当てる。虎児が慌てて彼女に近寄った。


「おい、大丈夫なんか?」

「あ、はい。少し頭痛がしたもので」


 桂はしかめた眉を戻し、虎児に笑ってみせる。


「そこにいるのは、桂さんと……誰ですか?」


 突如背後から聞こえた声に、虎児が振り向いた。

 そこには生成の作務衣を着て、口元を除く右半分を能面で隠した男――はなぶさ紫雲しうんが立っていた。

 虎児の顔に緊張が走る。自分の右耳に指を当て、入っているイヤホンに触れた。ピッという音がしてイヤホンの電源が入る。


「あなた見かけない顔ですね。桂さんのお知り合いですか?」

「ええ――」

「知り合いかどうか言うたら、ちゃうな。初対面や。せやけどワイはお前らのことをよう知っとるで〝月に捕らわれし者ルナティック〟」


 虎児が桂の言葉を遮った。言葉だけでなく体を使い、紫雲しうんと桂の視線をも遮る。先ほど桂にみせた労りとは真逆の口調。

 桂は言葉を継ぐことをやめ、紫雲は虎児を睨んだ。


「〝月を喰らいし者エクリプス〟……いや、〝月の紛い物フェイク〟か」


 思いのほか落ち着いた声音こわねで、紫雲が言う。


「〝月の紛い物フェイク〟……かいな。そういや昔、そないなことをガキの格好した〝月に捕らわれし者ルナティック〟に言われたことあったな」


 虎児は紫雲に不敵な笑いを向ける。そして――


九重くのうかずらのことや」

九重くのうかずらですか」


 虎児と紫雲が同時に言った。


「面白いことを考えとるちゅうんは、お前のことやったんやな。仲間集めてどないするつもりや?」

「やはり、彼は倒されていたのですね。ここに来たのも彼から辿って……にしては連絡が途絶えて随分時間が経ってますが」


 虎児の問いに紫雲は答えない。ただ無感情に虎児を見つめたまま言う。虎児は肩を竦めてみせた。


「それはたまたまやな。こないだここに〝なりかけ〟がよったろ? そいつを追っとったら教団ここに行き着いたちゅうわけや」


 少々大げさにも思える口調で、虎児は言う。


「なりかけ……そうですか。橘さんを追って。何を思って侵入して来たのかは知りませんが、あなたが〝月を喰らいし者エクリプス〟ならちょうど良かった」

「?」

月晶げっしょうでしたか? それをいま持ってますか?」

「月晶? 持っとるが……〝月に捕らわれし者ルナティック〟には必要ないやろ」

「先ほどあなたは『仲間を集めて』と言いましたね。あなたも知っての通り、月の歌を聴ける者は決して多くない。せっかく見つけてもかれのように倒されてしまう。それでは〝月を喰らいし者〟あなたたちには対抗できない。

 そこで私は考えました。〝作って〟しまえばいいと。幸い、手元には〝月を喰らいし者エクリプス〟を返り討ちにしたときに手に入れた月晶があった」

「まさか〝人〟に月晶を喰わしよったんか」


 虎児の表情が険しくなる。その声は低くまるで唸っているようだ。


「月晶とやらで月の力を借りる。あなたたちとやってることは変わらないでしょう?」

「おんどれは紛い物言うて莫迦にしとったんやないんか?」

「たとえそれが紛い物であっても、ないよりはマシでしょう」

…やと」絞り出すように虎児は言う。「おんどれは〝人〟をなんやと思うてんねや。ただの〝人〟に月晶を与えても月の力に飲まれてまうだけや」

「そうですね。いままで誰一人成功しませんでした」


 紫雲はまるで世間話でもしているかのように言う。


「当たり前や! 月晶に込められた月の力に耐えられる〝人〟なんぞそうはおらへん。ワイらかて最初は相当の覚悟で月晶を喰う。死ぬかもしれへん。それでも……〝人〟の理の外に飛び出してでも貫きたい想いがあるから耐えれんねや」


 虎児は両手の拳を握りしめ、紫雲を睨む。その背中を桂が何も言わずに見つめていた。彼女の瞳に写る虎児の背中。それを見て桂はなぜか懐かしいと思った。


「そうですか。あなたたちはいつもそうですね。突然やって来て、自分の都合ばかり押しつける。そして他人のことを知ろうともしない」

「何のことかわからへんが、おんどれは排除する」

「ほら。そうやって奪うことばかり考える。お前らはいつもそうだ!」


 能面に隠れている紫雲の右目のあたりに光が灯った。左目は赤く変わる。

 同時に紫雲の右手が揺らめき、炎が生まれた。


「それは、ちぃとやっかいそうやな」


 紫雲が右手を振る。炎の塊が虎児を目がけ飛んできた。

 虎児はそれを跳んで避けようとし、しかし何かに気づきその動きを止めた。すぐに虎児は上半身を守るように両腕を交差する。

 炎が虎児を襲った。熱が一瞬、全身を飲み込む。炎が消えた後、そこには虎縞の毛並に覆われた両腕を交差した、虎児が立っていた。

 着ていたジャケットは、二の腕の半ばから破れている。


「今です。桂さん、捕まえてください」


 虎児の動きが止まっているのを見て、紫雲が言う。

 しかし桂は動かない。毛の焦げた匂いが彼女の鼻孔に流れて来る。

 炎が襲って来たとき、目の前の男は動かなかった。いや、一瞬避けようとしてその動きを止めた。もし彼が避けていたら、炎は自分を襲っていただろう。そのことに桂は気づく。

 そして紫雲が虎児に話した内容。紫雲は何を試したのか。成功しなかったとはどういうことなのか。虎児の言った「死ぬかもしれない」という言葉。


 それらが紫雲に対する疑念を桂の中に生じさせた。だから――彼女は紫雲の指示に従うのを躊躇ってしまったのだ。

 その隙を虎児はのがさなかった。桂の背後に虎児が回りこむ。そして素早く彼女の首に右腕を回し自分の方へ引きつけた。桂の顔の前に、虎の爪を立てるようにして左手が添えられる。


「人質ですか。せっかくの仲間を失いたくはないですが……」

「ジブンには通用せんみたいな言い方やな。せやけどおんどれの意識をそらすくらいの効果はあると思うで? 宗弥そうや!」


 その言葉と同時に、紫雲の背後――上空からモーター音が近づいて来た。

 紫雲が慌てて音のする方向を見る。ドローンが上空から紫雲へ向けて降下してくるのが目に入った。咄嗟に顔をそらす。ドローンは彼の顔を掠め再び上空へと上がった。

 紫雲の顔を覆う能面が弾かれる。能面の下から現れたのは、右頬から上が醜く焼け爛れた紫雲の素顔だった。右目に眼球はなく、そこには光る月長石が見えていた。


「くっ!」


 紫雲が腕を振り、飛び上がったドローンへと炎を放つ。ドローンは炎に包まれ、それ以上浮き上がれずに墜落した。


「手荒なことしてすまんかったな、佳乃。葵のことは話を合わせといてくれ」


 虎児は桂にしか聞こえない声で言う。そして拘束を解き、彼女の背中を優しく押した。前に押し出された桂がすぐに振り返る。

 虎児は猫のように庭木によじ登ると、そのまま塀の外へと飛び出した。


「逃がしましたか」


 顔の右半分を押さえながら、紫雲が桂の隣にやってくる。


「すみません。咄嗟に動けなくて」

「いえ。仕方ありません。後で少し話を聞かせてください」

「はい」


 紫雲は能面を拾い、本殿の方へと歩いて行く。


「……虎児」


 桂は虎児の去っていった方を見たままそっと呟いた。その口元が微かに笑みを形作っていることに、彼女は気づかない――


        ☆


『葵チャン、ちょっといい?』


 宗弥から通信が入ったのは、本殿にある百合ゆりの部屋にいたときだった。


「宗弥先輩?」


 葵の言葉に、そばにいた百合が反応する。


「……仲間から連絡です」


 葵は百合の方を向いて言う。


『虎児サンが紫雲に見つかった』

「え? 捕まったんですか?」

『いいや。すぐに逃げたよ。今こっちに帰ってきてる』

「そうですか。良かった」

『でね。葵チャンのことは〝月を喰らいし者エクリプス〟だって、まだ紫雲にはバレてない。虎児サンが上手く誤魔化してた。ただ……』

「桂さんですね」

『そう。一応、虎児サンが協力を要請してたけど、葵チャンのことをバラさないって保証はない。だから気をつけて。

 あと紫雲のことなんだけど……』


 宗弥は虎児と紫雲が交わした会話の内容を葵に話した。紫雲の目的。そして月晶を使った実験のことを。


「……それは」


 宗弥の話を聞いて、葵は言葉を失う。彼女自身は月晶を使ったことはない。だが〝月を喰らいし者エクリプス〟にいる以上、月晶を使うことのリスクは充分に理解していた。そして月晶に適合できない者の末路も知っている。


「何があったの?」


 そんな葵の様子を見て、何か深刻な事態に陥ったと察したのか、百合が緊張した面持ちで訊いてくる。


「先輩が紫雲と接触しました」


 葵は宗弥から聞いた話をそのまま百合に伝える。


「あなたのことが紫雲にバレたかどうか、まだ分からないのね?」

「はい。もしあたしの正体がバレていないのなら、下手に逃げるわけにもいかないです」

「桂さん次第……なら、行きましょう」


 そう言って百合は葵の手を取った。


「行くって、どこへ?」

「お父さまの所よ。紫雲が外にいたのは〝月の癒し〟を受けた客を門まで送りに出てたからよ。今なら大広間にはお父さまひとりのはず。お父さまに紫雲がしてきたこと話すの」


 葵は百合に引かれるまま大広間へと歩いて行く。


「お父さまに話せば、きっと私たちに手を貸してくれる。そうすれば桂さんからあなたのことがバレても、逃げる時間くらいは稼げるわ」

「それでは、百合さんたちが」

「私とお父さまなら大丈夫。紫雲にとって利用価値があるから。でもあなたはそうじゃない。紫雲を追い出すためにも、あなたには無事でいてもらわないと」


 二人は渡り廊下を進み、大広間へと入った。中には深山しんざんが一人、祭壇の前に座っていた。


「百合……とたちばなさん。どうしたんだ?」


 葵と百合が深山のそばに座る。百合が父を見る瞳は真剣だ。


「お父さま、聞いて――」

「ああ、橘さんもここにいましたか。宿坊にいなかったので少し慌てました」


 百合が話す前に、能面をつけた紫雲が桂を連れて大広間にやってきた。葵と百合の体に緊張が走る。


はなぶささん、何かあったのですか?」


 深山が新たな闖入者を見て言う。


「はい。先ほど、教団に侵入者が。どうやら橘さんを追ってきた〝月を喰らいし者エクリプス〟のようです」

「〝月を喰らいし者エクリプス〟。それは以前、英さんの言っていた?」

「我々の敵です。侵入したところを桂さんが発見しました」

「大丈夫だったのですか?」


 深山が桂に訊く。


「偶然、紫雲さまが駆けつけてくださったので」

「橘さん」


 紫雲が葵に近づいて来る。


「はい」


 葵は緊張が顔に出ないよう気をつけながら返事をする。


教団ここに来る前に、〝月を喰らいし者エクリプス〟を名乗る男が接触してきませんでしたか?」

「いえ。……あの、〝月を喰らいし者エクリプス〟ってなんですか?」


 紫雲はじっと葵の顔を見つめている。握りしめた葵の手が汗ばんでくる。


「我々の敵であり、月の力を借りることのできる……〝月の紛い物フェイク〟です」


 少しの間を置いて、紫雲が言った。


「どうやらあなたは奴らに目をつけられていたみたいです。しばらく敷地内から出ずに、行動も一人でしないようにしてください」

「はい」


 葵の返事を聞いて、紫雲は大広間から出て行く。桂は葵と百合に軽く目配せをして、紫雲の後をついて行った。


「……桂さんは話してないみたいね」


 二人の足音が遠ざかったのを確認して、百合が葵を見て言う。葵も頷いてみせる。

 そんな娘たちの様子を見て、深山は目の前の二人が先ほどの件に関わっていることを察する。そして先ほど百合が真剣な表情で何か言おうとしていたことを思い出した。


「百合……聞かせておくれ」


 百合と葵は改めて深山の方を向く。


「お父さま。実は……」


 百合は一度目を閉じて、大きく息を吸う。そして吐き出すと同時に目を開くと、今夜のことを話し始めた。

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