三十二夜 月と傷跡とあたし

「お風呂、誰もいなかったよ。今のうちに入ってきなよ」


 部屋に入って来るなり、ルームメイトの石川いしかわ海美よしみが言った。ドライヤーを取り出すと、鏡が置いてある自分の机の前に座る。

 海中わたなか高校の近くに建てられた女子寮。その自室に葵はいた。


 もともと海中高校は主に瀬戸内の島々の生徒を受け入れる、全寮制の公立高校だった。船舶が主な移動手段だった時代、島への移動は天候に左右される。そのため学校側が一括で生徒を預かっていたのだ。

 近年の少子化や島の過疎化。交通網の発達により現在は島からの自宅通学も増え、希望者のみ寮に入ることができるようになっていた。


海美よしみは明日から実家へ帰るんだっけ?」


 入浴の準備をしながらあおいが言う。


「寮を出るのは明日だけど、実家に帰るのは十四日かな。それまでは申し込んでおいた夏期講習があるから、親戚の家に居候」


 そう言って、海美は舞ノ浦まいのうら町からバスで一時間ほどの場所にある街の名前を言った。葵が定期的に通う、総合病院のある街だ。


「海美はホントに大学受けるんだ。看護大学だっけ?」

「そうそう。やっぱ、外に出たいじゃん? こんな田舎に一生縛られたくないし」


 海美は近くの島の漁師の娘だった。現在では島々を結ぶ橋も整備され、バスなどで通うことも可能だが彼女は敢えて寮生活をしていた。


「できれば東京の大学に行きたいけど、うちはお金がね。わがまま言って寮生活させてもらってるし。葵は大学受けないの?」

「うん。叔父さんたちに迷惑かけたくないし、就職するつもり」 


 葵を引き取ってくれた叔父夫婦は、彼女が大学に行きたいと言っても迷惑だとは思わないだろう。事件のせいで高校進学を諦めてかけた葵を「せめて高校だけでも」と言って背中を押してくれたのは叔父夫婦だった。

 こんな遠く離れた高校に編入させてくれたのも、葵が疎ましかったからではない。誰も自分のことを知らない場所に行きたいと願った、彼女の気持ちを尊重してくれたからだ。


「成績良いのにもったいない……けどまぁ、早く自立したい気持ちはちょっと分かるかな」


 海美の言葉に葵は曖昧な笑みを浮かべる。彼女は葵の事情を知っている数少ない友達だ。四年前の事件のことも、そのせいで一年遅れで入学していることも知っている。そしてネットでの誹謗中傷やマスコミのしつこさに故郷を追われるように出てきたことも、海美には話してあった。


「今年も叔父さんのトコには帰らないの?」

「うん。なんとなく居づらいし。お墓参りは行かないといけないって思っているんだけど……。お風呂入ってくるね」

「ほーい」


 海美の声を背に、葵は自室を出る。寮の廊下にはまったくと言っていいほど人気ひとけはなかった。例年、夏休みになると寮は閑散とするが、今年はいつもにも増して残る生徒は少ない。それは今年のお盆がカレンダー通りでも祝日を含む九連休になっているからだ。

 世間では明日から大型連休だった。寮で生活する生徒の多くは実家へと帰省していた。


 廊下の窓から外を見る。校舎を含む施設は、山の中腹に建っていた。女子寮周りは高い塀と植林された杉によって遮られている為、外部から覗き込むことは難しい。しかし空までは隠されていない。

 夜空には九夜月が見えていた。葵はそれに気づくと窓から離れる。

 葵は月が嫌いだった。四年前の事件を思い出すから……というのも、もちろんある。事件後しばらくは夜が、月が怖かった。特に満月を見れば発作が起きるほどに。

 それでもここ一年くらいは発作は起きていない。葵はなるべく月が見える時間には出歩かないようにしていた。


 海美の言ったように、脱衣場には誰もいなかった。

 服を脱いで洗面所の鏡を見る。葵の裸体が映っていた。

 身長は同年代の平均だが、手足は細かった。そして女性としての曲線美もさほどない。痩せているというより、全体的に平たいという表現が似合いそうなプロポーションだった。


 鏡に映る自分を見て、葵はため息をつく。おしゃれにまったく興味がないわけではないが、無頓着な方だという自覚はある。そんな葵からしても、もう少し女性らしい体つきであれば……と思う。印象がどこか子供っぽいのだ。

 実際、四年前から葵の体はほとんど変わっていない。定期検診で行われる身体測定でも、驚くほど変化は少なかった。


 葵の胸の中央あたりから腹部にかけて、真っ直ぐな傷跡があった。その傷跡にそっと指を這わす。四年前に負った傷。

 こうして自分の傷跡と向かい合うことができるようになったのも最近だ。右手を心臓の近くに当てる。鼓動が手に返ってきた。

 葵は月を見ていると、恐怖以外の感情がわき上がってくる時があった。ざわつく……とでも言えばいいのか。だが決して悪い気はしなかった。

 そんな時、決まって鼓動が二重に打つのだ。まるで自分の心臓がもう一つあるかのように。


 今もそうだ。しかしそれは、月を見たからというよりも夕方会った男の言葉のせいかもしれなかった。

 ――嬢ちゃん、月は好きか?

 男の言葉がよみがえる。それと同時に先ほどみた九夜月が思い浮かぶ。自然と口のに笑みをく。

 鏡に映る自分に気づき、葵は表情を固くした。


「月なんて、大っ嫌いよ」


        ☆


 潮の匂いが虎児の鼻孔をくすぐる。


「ああ、わあっとる。せやからこうして連絡しとるんやないか」


 舞ノ浦町にある旅館の一室。大きく窓を開けて外を見ながら、虎児とらじが言う。泊まっている和室は二階にあった。窓の外には低い木柵がある。虎児はその木柵の上に寄りかかって外を見ていた。スマートフォンを耳に当てている。


「来たばっかりやで。そないはよう見つかるわけないやろ」

『定期連絡のお約束です。いくら君が優秀でも、いきなり見つかるとは思っていませんよ』


 電話から聞こえる声は中年男性のものだ。


「それより例の嬢ちゃんがこの町におったで。あんさんは知っとたんか?」

『例の……?』

「なにとぼけとんねん。四年前の生き残りや。狐と狸を掛け合わせたような化かし合い好きなあんさんのことや。わかってて何も言わず送りこんだんやろ」

『酷い言われようですね』


 電話の声は苦笑していた。


「あんさんには昔っから世話になっとる。なにより風眼坊ふうがんぼうの一件で、ん出されたワイを拾ってくれたのは恩にきとる。せやけど最初はなっから嬢ちゃんをおとりに使うつもりやったんなら、あんさんの思い通りには動かへんで」

『ふうむ』電話の向こうで男はため息をつく。『向日むかいあおいがその町にいることは知りませんでした。これは本当です。でもアイツが町に向かったかもしれないというのなら、目的はそのでしょうね』

「嬢ちゃんはまだ〝人〟や。いくら関係者や言うても、ワイが〝人〟を巻き込むんがキライなんは、あんさんもよう知っとるやろ」

『もちろん知っています。そして君が、決して〝人〟を見捨てないこともね』


 虎児は思わずスマートフォンを投げ飛ばそうと構えた。そしてすぐに思い直したように耳に戻す。


「……ホンマにあんさんは狐と狸の掛け合わせやわ。確認やけど、この件に関してはワイらに裁定権があんねんな?」

『ええ』

「ほいたらこの件は、ワイの好きにさせてもらうで」

『そのつもりで君を送り込んだんです。責任は私が取りますから』


 通話を終えた虎児は、スマートフォンを部屋の中に放り投げた。部屋に敷いてある座布団の上に、見事に着地する。

 虎児は考え込むように外を見ていた。防波堤沿いの道路には車も人の姿もない。その向こうの海面が、街灯に照らされて浮かび上がっていた。

 打ち付ける波の音は、まるで虎児の思考に相づちを打っているようだ。

 夜空には九夜月が浮かんでいた。

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