三十一夜 猫とオジサンとあたし

 海岸沿いの対向二車線道路を小型のローカルバスが走っている。太陽は瀬戸内の穏やかな海面へと近づきつつあった。

 バスは小さな港町へと入って行く。そして漁港の入り口にあるバス停に止まると、少女を一人、吐き出した。


 淡い緑色のスニーカーがアスファルトの上に降りる。デニムパンツにグレーのTシャツ。その上に乗るのは丸顔にマッシュショートの黒髪。大きめの丸目は二重。小作りな鼻と口。

 向日むかいあおいはバスが去ったあと、海から差し込む太陽に目を細めた。まだ夕焼け色には遠い。けど昼の日光とはあきらかに違う日足ひのあしあおいを照らす。

 八月とは言え、近頃の日差しは殺人的だと葵は思う。夕刻になった今でもまだ蒸し暑い。


 オフホワイトのトートバッグから、中身が半分ぐらいになったペットボトルを取り出す。キャップを捻り、お茶を一口含んだ。

 バスの中は冷房が効いていた分、外に出たときの蒸し暑さが際立つ。

 葵は町中まちなかへと歩き始めた。


 舞ノ浦まいのうら町は江戸時代から続く古い港町だ。江戸時代には海の交通の要所として小さいながらも花街を擁し、昭和に入ってからは漁師町として栄えた。

 今は重要文化財となったそのころの建物を含む町並み保存地区と、たくさんの地域猫を目玉にした観光地となっている。

 保存地区には住居を始めとして、古い建物が多い。花街茶屋や昔の商人屋敷。漁師町として栄えていたころにできた昭和初期の映画館。海に面した大波止場など。

 葵はそんな町並み保存地区の一角にある喫茶店へと入った。


「あら、葵ちゃん。いま帰り?」

「はい。今日はすみませんでした」


 夫婦でやっている小さな喫茶店。主に観光客相手のお店だが、週末や連休でもなければ夕方に客の姿があることはまれだ。今も店内に客はいない。

 片付けをしていた女性が葵を見て微笑む。長い黒髪を後ろで束ねた、中年の女性――マスターの奥さんだ。


「病院、大丈夫だった?」

「はい。定期検診ですから。明日はいつもどおりのシフトで出ます」

「お願いね。あと帰りに太郎丸たろうまるたちの様子もみておいて」

「わかりました」


 簡単なやりとりだけ済ますと、葵は喫茶店を後にした。保存地区を山に向けて歩く。山の中腹には葵の通う海中わたなか高校があり、住んでいる寮も近くにあった。

 入り組んだ路地を抜け山に近づくと神社がある。鳥居と石畳の参道があり、二十メートルほど先には石造りの短い階段。その上には拝殿と本殿が鎮座していた。


 地域猫の多くがこの神社を拠点にしている。葵は神社へと入って行く。

 鳥居を潜った先、参道横の手水舎わきに男が一人しゃがんでいるのが見えた。葵に背を向け、なにやら地面に向かって話しかけている。


「せやからな。コイツを見かけたらワイに教えて欲しいねん」

『にゃう』

「報酬? さっき、ちゅ~る渡したやんか」

『にゃおう』

「え? もっと欲しいて? 見つけてくれたらもう一本進呈するで」

『にゃぅーん』

「キャットフードでジャガー? そんなんあるんやな。調べるさかい、ちょい待ち……うわ、高いやん。しかも固形かいな」

『なぅー』

「考えとくわ。よろしく頼むで」


 そう言うと、男は立ち上がって振り返る。ちょうどスマートフォンを構えた葵と向かい合った。


「…………」

「…………」


 男はインディゴのテーラードジャケットに白いTシャツ。黒のシーンズとスウェードのスニーカーといった出で立ちだ。。

 背はそれほど高くはないが、服の上からでも鍛えられた肉体であることが伺える。歳は三十歳前後か。

 ――カシャ。

 シャッター音がして、葵のスマートフォンに男の写真が保存される。そのまま操作をするために俯いた葵の顔を見て、短く刈られた黒髪の下に見える男の目が、僅かに見開かれた。


「変質者発見なう……と」

「ちょ。まっ。嬢ちゃんタンマや」


 少女が何をしようとしているのかに気づいた男が、慌てて声をかけた。葵が胡散臭そうな目で男を見る。


「ワイは別に怪しいモンやない。この猫とちょっと話とっただけやねん」


 そう言って男はうしろゆびさす。その先には顔が白と黒に綺麗に分かれた、ハーフサイダーの猫が一匹、座っていた。顔の右半分は黒で左半分は白。瞳も右はブルーのオッドアイだ。

 男の言葉に応えるように猫が鳴いた。


「危ない人発見なう……と」

「せやからちょっと待てって。ワイはこういう者やねん」


 男が慌てて名刺を差し出してきた。葵はそれを汚いものでもつまむような感じで受け取る。


筑紫つくし総合探偵社……伊吹いぶき虎児とらじ?」

「せや。ワイこう見えて探偵なんや」


 名刺に書かれた住所は東京のものだ。探偵という人種はドラマや映画の中でしか、葵は見たことがない。だから男――虎児とらじが、そもそも探偵に見えるのかどうかはわからない。それよりも葵には気になることがあった。

 葵は虎児の顔と名刺を何度か見比べる。


「な、なんや」

「……関西弁」

「はぁ?」

「いえ。名刺の住所は東京なのに関西弁なんだと思って」

「いや、嬢ちゃん。吉本が東京進出して天下獲ってるご時世やのに、いまさら珍しいか?」


 虎児の言葉に応えずに、葵は名刺に印刷されたQRコードをスマートフォンで読み込んだ。すぐに、画面に『筑紫総合探偵社』のウェブサイトが表示される。


「あなたの写真、ないんですけど?」


 葵はしばらくスマートフォンを操作していたが、手を止めて画面を虎児に見せた。


「いや、そんなん当たり前やろ。どこの世界に探偵の顔写真を載せる探偵社があんねん。顔割れてたら調査しにくなるやろ」

「でも、顔が映ってる写真がいくつかありますよ?」

「それはモデルさんや。ホンマにその人らがおるわけやない」

「……ふーん。一応、通報はしないであげます」


 葵の声は固い。緊張からか、肩に力が入っているのが外からも分かる。


「そら、おおきに」


 虎児は満面の笑みを浮かべた。一つ間違えば胡散臭さが増す笑い方だが、虎児がすると人懐っこく見えた。

 その笑顔を信じたわけではないが、少なくとも害意はなさそうだ。葵は肩の力を抜く。


「でも注意はさせてもらいますね。この辺りにいるのはみんな地域猫。だから部外者が勝手に餌を与えたりしちゃだめですから」


 いつの間にか、ハーフサイダーの猫が葵の足下に来ていた。ゴロゴロと喉を鳴らし、葵の脚に体をすりつけている。

 葵はしゃがむと猫の耳裏を掻いた。その耳先がカットされている。猫は目を細めそのままゴロンと横になった。


「そりゃスマンかった。人捜しのお願いすんのに、手みやげがないと話にならん思うてな」

「……やっぱ、通報します」

「せやから待てって。ワイはこの町に人捜しに来てん。嬢ちゃんも、もしみかけたら連絡してくれへんか? 番号はさっきの名刺に書いてあるさかい」


 そう言って虎児は自分のスマートフォンの画面を見せた。画面には学生服を着た中学生くらいの男の子が映っていた。

 ツーブロックの黒髪にやや面長の丸顔はどんぐりをほうふつとさせる。色白で目は細いが黒目は大きい。鼻は小さく唇は薄い。口の両端が下がり気味のせいか、葵には随分と気弱そうに見えた。

 実際の写真を取り込んだものなのか、やや色あせて見える。


「中学生に見えるけど……家出、ですか?」

「守秘義務があるさかい詳しゅうは言えへんけど、まぁそんなとこや」


 舞ノ浦町は小さい町だ。もし誰か――中学生となれば特に――が家出したのなら騒ぎになっている。しかし葵はそんな話を聞いていない。ならこの男の子は余所からこの町にやってきたのだろうか。もしかしたら探偵を名乗った目の前の男と同じく、東京から来たのかもしれない。

 それならずいぶん遠くに家出したものだ。写真の印象からは、そんな大胆な行動を起こすようには見えなかったが。


「見覚えはないんやな?」


 もちろん葵は写真の男の子に見覚えはない。

 だが、少女を見る虎児の目は真剣だった。その真剣さに気圧されるように、葵は頷いてみせた。


「ほうか」


 虎児の表情が和らいだ。そのまま立ち上がると、葵に背を向けて歩き始める。


「せや」


 すぐに思い出したように虎児は立ち止まった。そして葵の方を振り向く。


「嬢ちゃん、月は好きか?」


 その言葉に、葵は一瞬固まった。体が緊張するのが自分でも分かる。撫でていた猫が驚いて起き上がった。

 〝月〟という言葉に手が震える。それは四年前、葵を襲った惨劇を思い起こさせる単語だった。なぜこの男は〝月〟という言葉を口にしたのだろう。恐怖が、疑念が、憎悪が葵の感情をかき混ぜる。心がざわつく。このままでは――


 ふと手に感じた温かい感触で、葵の意識は現実へと戻った。猫が、毛繕いをするように少女の手を舐めていた。

 葵はゆっくりと息を吐いた。


「月……ですって? 月なんて大っ嫌いよ」


 葵は立ち上がり、ありったけの憎悪を込めて言う。まるで目の前の男が月そのものであるかのように。虎児を睨み付ける視線は冷たい。


「……そらえかった」


 自分を見る虎児の雰囲気が優しいものに変わったように、葵には思えた。睨んでいた葵の表情もつられて柔らかいものになる。


「もし写真のヤツを見かけたら、絶対に近づかんとワイに連絡くれ。太郎丸先生もな」


 虎児は今度こそ葵に背を向けて去っていった。背中越しに右手を上げて鳥居をくぐる。


『にゃー』


 猫――太郎丸が応えた。

 葵は、男の姿が完全に消えるまで後ろ姿を睨み続けた。そして見えなくなると、その場にへたり込んだ。

 太郎丸が葵の体に自分の体を擦りつける。葵は背中を撫でた。


「変なヤツだったよねー。太郎ま――」


 名前を呼びかけて、葵は言葉を止める。ハッとしたように虎児が去った方向を見た。

 ――太郎丸先生もな。

 なぜあの男は太郎丸の名前を知っていたのだろうか。確かに太郎丸は珍しいハーフサイダー猫としてSNSで話題になることも多い。だから地域猫目当てでこの町に来たのなら、名前を知っていても不思議ではない。

 だが――


「本当にあんたと話して……なわけないか」

『にゃーん』


 太郎丸は葵の手を舐めると、ひと声鳴いた。

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