二十四夜 今度はやる気あんねんな

 美紀みのりは黙ったまま虎児を見ていた。


「な、なんや」


 美紀にじっと見つめられ、虎児とらじは照れたように視線をそらした。


「こないなところで話し込んどってもしゃあない。嬢ちゃん、逃げるで」


 つくろうように言う虎児を見て、美紀はくすりと笑った。不思議と目の前の男に対するわだかまりは消えていた。美紀は、今なら虎児のことを信用してもいいと思えた。


「でも、逃げるってこれじゃ……」


 美紀は自分の体を見る。風眼坊ふうがんぼう呪束帯じゅそくたいと呼んだ白い帯状の和紙は、相変わらず少女の体を拘束している。動かしても緩む気配すらない。


「心配しぃな。ワイがはずしたる」

 そう言って虎児は左手を顔の前にかざした。手の甲を美紀の方に向け、リンゴでも握り潰すかのように、力を込める。

 虎児の手に変化が訪れた。手を構成する筋肉のひとつ一つが膨れあがりその姿を浮き彫りにする。ジャケットの裾が膨れ、前腕部がすぐに破れた。

 肌を覆うように毛が生え始める。時間にして数秒。虎児の左腕は人としてのかたちを保ったまま獣の腕のようになっていた。


「なんや、あんま驚かへんねんな」


 虎児はつまらなそうに言った。

 確かに、目の前で虎児の腕が変化するのをみても美紀は驚かなかった。意外なほど冷静に、事実として受け入れてしまった自分に戸惑う。


「こら、思うたより月の影響受けてんのかもしれへんな。嬢ちゃん動くなよ」


 虎児の指先から鋭い爪が飛び出る。腕を一閃すると、今までビクともしなかった呪束帯があっさりと外れた。鮮やかな切り口を見せて床に散らばる。


「動けるか?」

「あ、うん」


 美紀は立ち上がると、何度も屈伸を繰り返した。凝り固まっていた筋肉がほぐれていくのがわかる。


「おじさん、あのお坊さんは?」

「おじさん言うな。風眼坊なら今でかけとる」


 虎児は格子戸の間から外を見ている。誰もいないのを確かめると、戻ってきてマグライトを美紀に渡した。


「おじさんって、やっぱり狼男?」


 美紀は虎児の左手を指して言う。


「ちゃう。ワイは猫派や。せやからこいつは虎や。あと、おにいさんな」


 ニヤリと笑って、虎児は明かりの中に腕を晒した。前腕を覆う毛並みは手の甲側が黄色。手のひら側は白く、手首より下には白に混じって黒の縞模様があった。


「それより嬢ちゃん、月長石ムーンストーンは持ってんか?」

「あ、うん」

 美紀はペンダントを取り出して見せる。美紀の月長石は微かな光を放っていた。


「だいぶ光が弱ってんな。まぁ、なんもないよりマシやろ。うもわるうも、今夜はそれが嬢ちゃんのお守り代わりになる。せやからしっかり持っとき」


 美紀は頷いた。

 二人は本堂を出た。すぐに階段があり、小さな境内へと続いている。境内はかなり長い間、人の手が入っていないのだろう。石畳の間からはびっしりと草が生え、すっかり荒れ果てていた。

 距離にして十五メートルくらい先に門らしき影が見えた。

 虎児を先頭に、その後ろを美紀は恐る恐るついて行く。少女は虎児の足もとをマグライトで照らしていた。

 突如、風が起こった。木の枝を揺らし、冷たい空気を美紀たちの肌に叩きつける。風は美紀たちの三メートル前方に渦を巻くように集まり、黒い影を生んだ。風眼坊だ。


「戻ってくるんが、ちぃと早過ぎひんか?」

「やはり裏切ったか。愚か者が」


 風眼坊は網代笠あじろがさを外すと、白く濁った瞳で美紀たちを睨みつけた。


「女狐んことは、キッチリとカタつけたるわ。せやけどこの嬢ちゃんはまだ〝人〟や。〝人〟を巻き込むんは掟破りと違うんかい」

「掟破りをお主が口にするか」風眼坊はわらう。「儂は言うたはずぞ。邪魔だてすれば容赦はせんと」

「ワイも言うたはずや。上等やて」


 虎児は背中を僅かに丸め、両手をぶらりと下げたまま左半身ひだりはんみになった。

 対する風眼坊は正面を向いて同じく両手を下げる。両手には独古杵を握っていた。


「嬢ちゃんは本堂の近くまで下がっとり」


 刹那、虎児は動いた。半身はんみから身を沈め、爆発するように前に出る。右腕を腰に引き力を込めた。腕が左のときと同じように獣化する。三メートルの間合いを一気に詰め、同時に右拳を突き出す。

 虎児の拳は左手の独鈷杵によって止められた。風眼坊はもう片方の独鈷杵で虎児のこめかみを狙う。

 虎児は上体をそらし紙一重でよける。すぐに後ろへ飛び、間合いをとった。右足前の半身はんみ構え。僅かに腰を沈め、左拳は顎の下へ、右拳は胸の高さでやや前に出す。


「今度はやる気あんねんな」


 虎児は風眼坊に、肉食獣のような笑みを向ける。

 瞬間に起こった二人の攻防を、美紀は身動きすら出来ずに見ていた。

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