二十夜 〝ひつよう〟

 肌を刺すほどに冴えた空気が辺りを支配していた。吸い込む空気は冷たく、吐く息は白い。

 季節は初冬。時間は夜。

 天空に浮かぶ月は満月で、優しい光が世界のすべてを包み浮き上がらせていた。


 美紀みのりも、月の光に浮かび上がった存在の一つだった。ハーフのダッフルコートに身を包みただ呆然と辺りを見回している。

 歳の頃は七歳。首の辺りで短く切りそろえられた髪。形のよい、大きめの目が印象的だ。

 美紀の周りには大きな滑り台にブランコと言った遊具。砂場と動物を象った乗り物。そこは住宅街によくある小さな公園だった。

 だが、美紀にとっては見覚えのない場所だ。


 ――言うことを聞かない子はうちにはいりません!


 母親の叱責が今でも耳に残っている。怖い形相。あれほど怒った母親を見たのは初めてだった。母親が怖くて、自分の言葉が拒絶されたことが悔しくて、いらないと言われたことがショックで、美紀は家を飛びだした。

 行く当てがあるわけでもなくただ逃げるように。そして気づくと、美紀は迷子になっていた。


 どこをどう歩いたのかを、美紀は覚えていなかった。

 母親の言葉を思い出すたびに涙がこぼれそうになる。それを我慢するようにうつむき加減で歩いていた美紀には、自分の歩いて来た道など振り返る余裕はなかった。

 夕刻はとうに過ぎた。公園に人はいるはずもなく、今頃はどの家庭も夕食を家族で囲んでいる頃だろう。


 そう言えば今日は何を作っていただろうか……。そんなことを美紀が考えた瞬間、お腹が空腹に対し抗議を上げた。

 空腹は人の気持ちを心細くさせる。

 怖かった。知らない場所で。ひとりきりで。誰も美紀のことを知らない。誰も助けてくれない。そしてここには美紀以外誰もいない。

 不安が、今まで漠然と感じていた不安が、いきなり美紀の心の中で存在を強く主張し始めた。どこかは判らない場所。誰もいない場所。そこに自分ただ一人。


「お母さん」


 美紀はうつむき、涙声で呟く。どんなに怒られようとも怖い顔をされようとも、心細い美紀が思い浮かべるのは母親の姿だった。

 だが、その母親はここにはない。美紀はただ泣き続けるのみだ。

 その泣き声が、ふと止まった。美紀は顔を上げ辺りを見回す。少女の泣き声が消えてしまえばそこは静寂の支配する夜の世界。

 美紀は静寂の中に声を聞いたような気がした。微かだが、女性の声を。それは泣くのをやめさせた声。優しくすべてを包み込むような、細く高く澄んだ声――


「だれ? お母さん?」


 母親の声とは違うと美紀には分かっていた。それでも言ってしまったのは、包み込まれるようなその声に母親の抱擁に似た安心を感じたからか。

 聞こえてくる声は相変わらず微かだ。それが一定のリズムを持っていることに美紀は気づいた。

 それはまるで――


「歌?」


 声は美紀に語りかけていると言うよりも、歌っているようだった。何を言っているのかは判らない。でもそれは確かに歌だった。

 どこから聞こえてくるのだろう。美紀は辺りを見回した。

 小さな公園だ。七歳の子供でも見回せば誰もいないことに気づくくらいの。なら近くに見える住宅から聞こえているのかとも思った。

 しかし声は、目に見える家々のどれよりも遠くから聞こえて来るような気がした。

 それでいて歌は美紀を包むように、まるで抱擁してくれているような安心感を与えてくれる。まるで見守ってくれているような。


 美紀は先ほどまであった不安が嘘のように消えていることに気づいた。

 その歌を聴いていると安心とともに心に力が沸いてくる。

 意地でも歌っている本人を見つけたくなって必死に耳を凝らせた。小さな両手を耳に当て、目をつむり、息を止めて歌を聴こうとする。まるで自分の息づかいでさえ邪魔だというように。

 止めた息の限界が近づくころ、美紀は何かに気づき弾かれたように空を見上げた。

 そこには、真円を描き輝き続ける月の姿があった。


「月……?」


 自らの出した結論に驚くように、美紀は空を見上げたまま呟いた。少女には歌が頭上から聴こえたような気がしたのだ。

 美紀がそのことに気づいたとたん、声はその力強さを増した。引き込まれるように、食い入るように、美紀は空を、月を見つめ続ける。今、美紀の周りには自分と天空の月しか存在していなかった。

 歌は今までにない力強さで、美紀を包もうとした。


「みのり!」


 突如、歌声を邪魔するかのように、大声で名を呼ばれた。急に現実に引き戻された美紀が、驚いてそちらに顔を向ける。

 公園の入り口、街灯が照らす光の中に少年が立っていた。肩を大きく上下させ、泥だらけのジャンパーを着て、美紀の方を見ている。

 どこか拗ねたような表情の少年。美紀はその少年に見覚えがあった。


「……めぐっちゃん?」

「めぐっちゃんって呼ぶな!」


 聞きなれた元気のいい声。隣に住む仲のいい男の子の声。それは異国の地で母国語を聞いたときのような嬉しさを、美紀にもたらした。


「めぐっちゃん!」

「だから、めぐっちゃんって呼ぶな!」


 駆けよって来た美紀を、少年――けいはぽかりと叩く。


「痛い! めぐっちゃんひどい!」


 美紀は抗議の声を上げた。恵は再び拳を振り上げようとする。だが、美紀の頬に涙の跡を認めなんとか思い止まった。


「おばさんさがしてたぞ!」


 かわりに美紀を怒鳴りつける。


「だって、だって……」怒鳴り声に驚いた美紀が、目に涙を溢れさせた。「わかんなくなったんだもん。帰れないんだもん」


 泣き始めた美紀を見て恵が慌てた。


「泣くなよ。つれて帰ってやるから」

「……帰れるの? めぐっちゃん、ここしってるの?」

「しらないけど、帰れる!」


 根拠はないくせに、恵の口調は自信に満ちていた。


「ホント?」

「ホントだ。帰るぞ」


 恵は美紀の手をとった。そのまま引っ張っていこうとして、恵は逆に引っ張られる。


「おまえ、帰りたくないのか?」


 恵が不思議そうに言う。


「帰りたいげと……」恵を見る美紀の目は不安そうだった。「あたしお母さんにいらないっていわれたの。うちにはいらないって。だから、帰っちゃだめなの」

「でもおばさん探してたぞ」


 美紀は一瞬だけ嬉しそうな顔をする。だが母親の形相を思い出し、顔を曇らせる。


「……でも、お母さんいらないっていったもん。あたしはいらない子なんだもん。やっぱり帰らない」


 美紀は恵の手を振りほどいた。


「帰らないのか?」

「…………うん」

「じゃあ、おれは帰る」

「え!?」


 驚く美紀を尻目に、恵は公園を出て行く。美紀が慌てて追いかける。


「めぐっちゃん、まって!」


 今度は美紀が恵の手をとって引っ張る。恵はこけそうになった。


「なんだよ」

「…………」

「ホントは帰りたいんだろ?」

「…………うん」ポツリと呟く。

「じゃあ、帰ろう」

「でも……いらないって……」


 美紀は恵の手を持ったままうつむいた。恵はそんな美紀を見て、わざとらしいため息をつく。


「しょうがないなぁ。おれがおばさんのかわりにおまえのこといるから、帰ろう」

「え? めぐっちゃんが?」


 美紀が顔を上げる。


「そうだ」

「めぐっちゃん、あたしのこといるの?」

「うん。おれが〝ひつよう〟にしてやる」

「〝ひつよう〟って?」

「えっと……」恵が考え込む。「美紀が家にいないといけないってことだ」

「おうちにいていいの?」

「いいよ」

「ホントに?」

「ホント」

「ホントにホント?」

「ホントにホント。うそじゃない。みのりがいないときは、どこにいても、さがしてみつけてやる。そして家につれて帰ってやる。約束だ」


 美紀の顔に笑顔が浮かぶ。


「うん、じゃあ、約束」


 二人は小指を絡める。


「ゆーびきりげーんまん、うそついたらはりせんぼんのーます! ゆびきった!」


 そしてどちらからともなく笑った。


「帰るぞ」

「うん」


 美紀は、満足そうにうなずいた。恵に手を引かれながら少女は公園を後にする。乱暴に繋がれた手は少し痛かったけど、美紀とって不快な痛みではなかった。

 それは自分がこの場にいるという痛み。そして自分のことが〝ひつよう〟だという証。

 引っ張られながら、美紀は空を見上げた。

 満月は相変わらず空へと浮かんでいた。だが、月を見ても先ほどのように美紀が歌を聴くことはなかった。

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