十六夜 ありがと
「あ、めぐっちゃん」
朝、
「めずらしいね。めぐっちゃんがこの時間に登校するなんて」
時刻は朝の七時半。美紀にとってはいつもの登校時間だが、部活で朝練のある恵には三十分近く遅い。
「そうだな」
恵はそっけなく答える。
二人はどちらからともなく歩き始めた。この状況に美紀は
「めぐっちゃん朝練は?」
「ない」
同じくそっけない返事に、美紀は少しむくれた。そしてすぐに恵の様子がおかしいことに気づく。恵は常に美紀の一歩前を歩き、ときおり周囲を見回していた。まるで何かを警戒しているような恵の動き。
それが意味している事に気づいた美紀は、嬉しそうに微笑んだ。
「めぐっちゃん」
「ん?」
「ありがと」
「なんだよ、いきなり」
美紀の方を見ようともせず、恵は答える。
「ううん。なんでもないよ。ただ言ってみたかっただけ」
恵はわざと遅く登校したのだ。玄関で美紀に会ったのも偶然ではない。待っていたのだ。美紀を守るために。
それがわかっても、美紀は敢えて言わなかった。恵も美紀にばれていると気づいてるはずだが、何も言わない。
お互言葉もなく、ただただ黙って歩く。喧嘩したした時のように何も話さない。でも、喧嘩した時とは明らかに違う沈黙。
美紀は今の状態が嫌いではなかった。何も話さない。でも恵がしてくれていることは美紀に伝わっているし、美紀の感謝も恵に伝わっているのがわかる。まるで
そう思うと自然と笑みが浮かぶ。
恵は先頭を歩きながら、いつも美紀が歩く近道へと入っていった。以前聞い限りだと、恵は一人で登校する時はこの道を使っていないはずだ。
あのあと、美紀は佳乃に車で家まで送ってもらったのだ。
不安はある。だが、任せてほしいと言った紅葉の言葉を美紀は信じようと思う。
首には紅葉に言われた通り、
校門が近づくにつれ、生徒たちの姿も目立つようになってくる。ここに来てようやく、恵の緊張もほぐれたようだった。歩調を緩め、美紀の横に並ぶ。
「めぐっちゃん、あたしは大丈夫だよ」
校舎に入ったところで、美紀は言った。
「だから無理せず、明日からちゃんと朝練出るんだよ?」
「考えとく」
そう言い残して、恵は自分の教室へと向かった。
☆
昼休憩――。
いつものごとく、三人は机を寄せ合って昼食をとっていた。
「へっ!? それでアンタ、大丈夫だったの?」
「うん。たまたま部活で通りかかっためぐっちゃんに、助けてもらったから」
「それなんてドラマ?」
「本当だって」
「別にうたぐっちゃいないわよ。で、警察には届けた?」
「ううん」
「なにしてんの。警察に届けなきゃ」
「……うん」
「放課後に行こう。アタシ付き合ったげる」
「私も同行するよ」美音子が言う。
「ありがと、みぽー。オトさん。でもホント大丈夫だから」
美紀は昨日あったことのすべてを話してはいなかった。多分、警察では解決できない。なぜなら月の歌を聴くなんてこと、普通の人はできないし信じないのだから。
頼れるのは紅葉たちしかいなかった。彼女の問いが耳に残っている。
――その覚悟はある?
美紀にはまだわからない。
――知らないで済むならそれが一番。
これは何も自分にだけ言えることではない。月の歌を聴くことができない二人を巻き込むべきではないのだ。
なにより美紀は、大切な友達を危険にさらしたくはない。
「
「あ、うん。ちょっとトイレ行ってくるね」
考えごとをしているのを見抜かれたくなくて、美紀はその場から逃げるように席を立った。教室を出て、一応女子トイレへと向かう。
――チリーン。
どこからか聞こえた音に、美紀の足は止まった。
――チリーン。
か細く、高く、澄んだ音。それは妙に美紀の耳についた。
(どこかで聞いたような……)
美紀の他に気づいた生徒はいない。ただ一人、美紀の耳にのみ、その音は届いているようだった。
――チリーン。
音は、やがて美紀の意識全体へと広がって行った。
☆
「美紀、帰ってこないねー」
教室では、瑞穂と美音子が弁当を食べ終えていた。美紀の座っていた席には、ピンクの小さな弁当箱がポツンと取り残されている。蓋は閉まっていたが中身は半分ぐらい残っているはずだ。
美紀がトイレに行ってから随分経つ。休憩時間の終了五分前を告げる予鈴が鳴った。
「アタシ、ちょっと見てくる」
「ああ……いや待て私も行く」
美紀のあんな話を聞いていただけに、二人とも美紀が帰って来ないことが気になった。
二人は女子トイレへと急ぐ。廊下は予鈴を聞いて教室へ帰ろうとする生徒たちで溢れていた。流れに逆らうように二人は進む。
瑞穂は器用に人波の間を縫って歩いている。美音子が、それに少し遅れて続く。
「……いない」
瑞穂たちの教室がある階のトイレの個室は、どれも空いていた。中に人影すらない。
「コラお前たち、授業が始まるぞ、教室に戻りなさい!」
トイレを出たところで、教師に見つかった。
「
「ひとまず戻ろう。もしかしたら入れ違いで帰ってるかもしれない」
しかし教室にたどり着いた美音子たちを待っていたのは、クラスメイトからの文句だけだった。
「滝さん。机使うのはいいけど、ちゃんと戻しておいてよね」
「すまない」
机はすでにもとの位置に戻されていた。置いてあった弁当箱は、二人分がまとめて美音子の机の上にあった。そして美紀の席に、彼女の姿はなかった。
「…………」
二人は言葉なく顔を見合わせた。
「来崎さん? 来崎さんなら、保健の先生に付き添われてるの見たよ」
美紀の席を見つめる二人を見て、先ほど文句を言った女生徒が言う。
本鈴が鳴り教師が入って来た。授業は古文だ。
「保健室に行ってみよう」
「へ?」
美音子は教室を出ようとする。
「おい、滝!?」
「すみません。気分が優れないので、保健室に行ってきます」
教師の声に、振り返ることなく美音子は答える。
「あ、付き添います」
瑞穂がそれに続く。二人は教室を出て保健室のある一階へと向かう。
「ちょっと、滝っち。保健室にいるんなら、後でもいいじゃん。気分悪いのにいきなり押しかけても……」
「確かめよう」
「え?」
「本当に来崎が保健室にいるのか、確かめよう」
横で心配そうな表情をする瑞穂に、美音子は笑いかける。
「そんな顔をするな、みぽー。私は安心したいだけだ」
しかし、保健室にやってきた二人が安心することはなかった。
「来崎さん? 昼休憩中にふらふら歩いてるの見かけたんで連れてきたけど、調子悪そうなんで早退するように勧めたわ。休憩が終わる前に出ていったけど、教室には帰ってないの?
早退のことは、私から担任の先生に伝えたんだけど……」
女性の養護教諭が言った。その言葉に瑞穂の顔が曇り、美音子の表情は固くなった。
「そんな、帰って――」
「はい。早退は先生から聞きました。来崎さんの荷物をこちらに持ってくるか、本人に確認しようと思って来たんですが、入れ違いだったみたいです」
瑞穂の言葉を遮るように、美音子は言う。
「そうなのね」
「お騒がせしました。失礼します」
隣りで呆然とする瑞穂の手を引いて、美音子は保健室をあとにした。
「滝っち、これって……」
「みぽー、言いたいことはわかっている」
今日の美紀は確かに変だった。しかし気分が悪いからと言って、美音子たちに何も言わずに帰るなどありえない。ましてや荷物を丸々残してなど。
美紀はそんなときは何かひとこと言ってくれる。その程度には友達であると、美音子は自負している。
「だったら先生に……。きっと昨日の変な男が関係あるんだよ」
「その可能性は高い。だが恐らく来崎は早退したことになってるはずだ。いま行っても無駄だろう。もう少し、情報がほしい」
「情報?」
「昨日会ったという男の情報だ」
「でも、そんなの美紀しか知らないし」
「みぽー」美音子がウインクしてみせる。「我らがお姫様には、悪漢から救った立派なナイトがいただろう?」
「〝めぐっちゃん〟!」
「そう。まずは
「でも、あいつ隣のクラスだよ?」
「……悔しいが、五時限目は諦めよう。だが、幸いなことに、六時限目は体育だ」
「そっか! おまけに今日は男女ともマラソン!」
瑞穂の弾むような声に、美音子は頷いた。
「勝負はこれからだよ、みぽー助手」
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