十五夜 玉桂にて 其ノ四

 ――カラン、カラン。


「あら、いらっしゃい」


 美紀みのりが入ると、紅葉くれはが笑顔で迎えてくれた。


「今日は一人?」

「あ、はい」


 美紀は店の商品には目もくれず、紅葉の前まで歩いて行く。少女の歩き方は少しぎこちない。表情もどこか固かった。


「どうしたの?」


 それに気づいた紅葉が怪訝そうに問いかける。

 紅葉の目の前に来ると、美紀はフッと表情を緩めた。そしてそのまま床にへたり込む。


「ちょっと、大丈夫!?」


 紅葉は慌てて少女を抱きかかえると、美紀たちがコーヒーを飲んだテーブルまで連れて行き、椅子に座らせた。


「すみません。なんか気が抜けちゃて」


 美紀は紅葉に笑顔を向けるが、どこか弱々しい。よく見れば全身が震えていた。


「何かあったの?」


 紅葉が真剣な表情で聞いてくる。美紀は先ほど会った男のことを紅葉に話した。

 それを聞いた紅葉は、難しい表情で黙ってしまった。


「紅葉さん……?」


 美紀は恐る恐ると言った様子で問いかける。


「こんなに早くあいつらと鉢合うなんて……」

「あいつら?」


 紅葉は美紀を見る。その表情は真剣で、どこか思い詰めたような雰囲気があった。


「知りたい? 確かに美紀ちゃんには、聞く権利があるわ。でも、聞いてしまうと戻れないかもしれない」

「戻れない……って?」

「完全に、月に捕らわれてしまうかもしれない。そうなったらもう〝人〟には戻れない。あなたのお友達やご両親、大好きな人たちと一緒にいられなくなるわ。

 その覚悟はある?」

「…………」


 紅葉の纏う雰囲気に気圧され、美紀は言葉が出ない。


「勝手かもしれないけど、美紀ちゃんにはこのまま何も聞かないでほしいと思ってるの。もちろん聞いたからといって必ずしも完全に捕らわれるわけじゃないわ。でも、知らないで済むならそれが一番。

 あんな素敵なお友達がいるんだから、あなたには〝人〟でいてほしい」


 紅葉の言葉に、瑞穂みずほ美音子みねこ――親友たちのことを美紀は思い浮かべた。どこかに行ってしまいそうだと怒っていた瑞穂。自分たちは味方だと言ってくれた美音子。

 二人は本気で美紀のことを思ってくれている。それは昨日、痛いほど思い知らされた。


「それでも聞きたいと思うのなら、その時は教えて上げる」

「……はい」


 美紀の中に、もやもやしたものがあるのは確かだ。紅葉の言葉に対し理不尽なものを感じているのも確か。しかし今すぐにでも聞くという選択肢を、美紀は選べなかった。


「その男のことは、責任を持ってこっちで対処するわ。だから美紀ちゃんは、心配しないで。

 そうだ。あのペンダント、いま持ってる?」

「いえ」

「じゃあこれからしばらく……そうね、わたしがいいと言うまであれを肌身離さず持っていて。お守り代わりになるから」

「はい」

「それと、佳乃が帰ってきたら、車で送らせましょう。それまでここでゆっくりしてなさい。

 何か飲み物を持って来るわ」

「あ、いえ。お構いなく。一人で帰れますから」

「だめよ。ここに来るまでに、だいぶ参ってたじゃない」

「う……」


 美紀は玉桂に来るまでの間、常に神経が張りつめていたことを思い出した。家に帰るまであの緊張を維持し続けることは、紅葉に会って気の緩んだ今の美紀には不可能だ。


「すみません」

「いいの」


 そう言って、紅葉は笑ってみせる。


 ――カラン、カラン。


 店の扉が開いた。


佳乃よしの、ちょうどいい――」


 言いかけた紅葉の言葉が止まった。視線は美紀の後ろ、いま開いたばかりの扉を見ている。


「久しぶりやな」


 聞き覚えのある声に、美紀は慌てて振り向いた。店の中に先ほど美紀を脅した男の姿があった。


「今、このから話を聞いてたとこ。関西弁の男って聞いてまさかとは思ったけど……あんただったのね、虎児とらじ


 紅葉の声は固く鋭い。さりげなく美紀の前に出てくると、虎児と美紀を遮るようににして立つ。


「ワイも驚いてるところや。嬢ちゃんに揺さぶりかけて、こない早う釣れるとはな。おまけに釣れたのがお前とあっちゃあ、神さんに感謝せえへんとな」


 虎児はあの、肉食獣のような笑みを浮かべてみせる。


「あら、あんた神様なんて信じるタイプじゃないでしょ?」


 紅葉も負けじと不敵な笑みを返す。


「抜かせ」


 虎児は店内を隙なく見回す。


「佳乃なら、今いないわよ?」

「そうみたいやな」

「で、何の用?」

「白々しいこと言いなや。化かし合いは嫌いや。女狐には勝てへん」

「あら、バカ猫には難しかった? やり合おうってんならやぶさかじゃないけど、できれば今は避けたいわね」

「心配しぃな。今日は挨拶に来ただけや」

「あんたが来たせいで明日にはわたしたち、いないかもしれないのよ?」


 紅葉の言葉に、虎児は肩を竦めてみせた。


「お前がそない、せこいタマかいな。

 それにそのお嬢ちゃんなりたてやろ? そんならしがらみがまだ残っとるハズや。寂しがり屋で強突張ごうじょっぱりのお前が、そのを置いて行くわけないやろ」

「このに手出しは無用よ。わたしはこのをこちら側に引き込む気はない。〝人〟に留めるわ」

「ハン。佳乃をそそのかしといて、よう言うわ」


 虎児は紅葉を睨みつける。そこには明らかな憎悪があった。


「男の嫉妬はみっともないわよ。それにこのに手を出せば、わたしだけでなく佳乃もあんたを許さないと思うけど?

 ストーカーだけでも嫌われてんのに、これ以上、嫌いになられてもいいの? まさか、あんたってマゾ?」

「ホンマ、ムカつくわワレ。

 ええやろ、嬢ちゃんにはワイらのことも話してへんかったみたいやし、信じたる。手ェも出さんといたる」

「ありがと」


 まったく感謝していない口調で、紅葉は言った。


「そのかわり……逃げた時はわかってんな?」

「ええ」

「ほな、せいぜい怯えて待っとれ」


 そう言って、虎児は紅葉に背を向けた。


「あら。佳乃が帰ってくるまで待たないの?」

「お楽しみはあとにとっておくんが、ワイの主義や」

「……不意を討てたハズなのに、馬鹿正直にでて来たことだけは、認めてあげるわ」

「そら、おおきに」


 一度も振り返ることなく、虎児は店を出て行った。

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