十四夜 月は好きか?

「で、けっきょく折原おりはらとは?」

「うん……あんまり話さなかった」


 次の日の昼休憩。いつものように美紀みのりたち三人は、机を寄せ合って昼食をとっていた。

 美紀の前にはいつもの、ピンクで楕円形の小さい弁当箱。美音子みねこの前にも定番の白い弁当箱。そして瑞穂みずほの前にはこれまた定番となったサンドイッチとジュースが置かれていた。


「まぁ、お隣なんだから、話す機会なんて腐るほどあるって。いなくなるわけじゃナイんだから」

「うん、それはそうなんだけど……って、みぽー早弁しててよく入るね。太るよ?」


 瑞穂はサンドイッチをひとかじりして、何度も噛んでからジュースで流し込む。


「だまらっしゃい。カロリーはきっちり消費していますぅ。運動部ナメんな」

「みぽーはホント健康優良児だな」

「滝っち、なんか引っかかるんですけど?」

「心配するな。言葉通りの意味だ」


 そう言って、美音子は箸でつまんだ卵焼きを瑞穂の前に差し出した。反射的に瑞穂が食べる。卵焼きを味わっているその顔は幸せそうだ。

 相変わらずの二人の様子に、美紀は笑った。

 昨日、雲水から三人で逃げた後、美紀たちは無事に恵たちと合流して五人で遊んだ。美紀もけいもそれなりに楽しんではいたが、いざ二人で帰るころになると必要最低限の言葉しか交わさなかった。


「……なんだかなぁ」


 そのときのことを思い出して、美紀はため息まじりに呟いた。

 恵と喧嘩したことはこれまでに何度もあった。決して珍しいことではない。そのたびにどちらからともなく、仲直りをしてきた。今回だって心配するほどこじれることはないだろう。


(でも……)

 美紀は心の中で呟く。

(昨日のは、なんか違う気がする)

 それが何なのかは美紀にはわからなかったが、一つだけ心に引っかかっているものがあった。

(手……簡単に離されちゃったな)

 掴んできた恵の手を振り払ったあのとき。思いっきり振り払ったとはいえ、恵の力なら掴んだままにできたはずだ。

 偶然かもしれない。でも、美紀の心にあのときの腕の軽さがずっと残っていた。


        ☆


 放課後――。

 帰宅部の美紀は学校を後にした。他の生徒たちに混じって、校門を出る。

 下校のときは、登校時と違い近道は通らない。学校から少し離れると、生徒たちの姿もまばらになっていた。

 いま美紀が歩いているのは対向二車線の生活道路だった。道路両端の路側帯は広く設置されており、まわりには家も見える。大通りからは少し離れているが、車の通る音はここまで聞こえてきた。


 路側帯のわき、塀の上に一匹の猫が座っていた。それを男が一人、眺めている。

 男は革のジャケットに紺のスラックス姿。背は高くないが、服の上からでも鍛えられたことのわかる肉体をしていた。

 男はなにやら猫に話しかけているようだった。その様子に、美紀は思わず笑みがこぼれた。

 男が美紀の方を向く。美紀を見ると、男は人懐っこい笑顔を浮かべた。

 思わず美紀が会釈する。男の側までくると、立ち止まって塀の上の猫を見た。


「嬢ちゃんも猫好きなんかいな?」

「はい。猫も犬も好きです……あっ、行っちゃった」


 猫は立ち止まった美紀に驚いたのか、塀の向こうへと飛び降りてしまった。


「ま、猫は気まぐれやさかいな」

「ふふ。そうですね」


 美紀はしばらく残念そうに塀の上を見ていたが、また会釈して歩き始めた。男も軽く頭を下げる。


「ところで嬢ちゃん」二人がすれ違った瞬間、男――虎児とらじが言う。「猫やのうて、月は好きか?」

「へ?」


 美紀の足が止まった。いきなりの問いかけに美紀はどう反応していいかわからず、固まった。新手の宗教勧誘。そんな言葉が少女の脳裏に浮かんだ。

 美紀はゆっくりと、体ごと男の方を向く。


「そない難しいこと聞いてへんやろ。月は好きかどうか、教えてくれたらええねん」


 美紀に向かって、笑顔を浮かべたまま虎児は言う。口調は優しく表情も笑顔だが、その目は笑っていなかった。

 美紀は思わず後ずさる。


「な、なんなんですかいきなり」

「うーん。わからんかなぁ」

「わかりません! 大声出しますよ?」

「もう、出しとるがな」虎児は苦笑する。「嬢ちゃん、実を言うとワイもな、月が好きやねん」


 まるで誰かに聞かれるのを恐れるかのように、虎児は声を小さくした。

 美紀は警戒しながらも、男の言う「月が好き」という言葉に引っかかっていた。


「つ、月は好きですよ」


 その言葉を聞いて、虎児は破顔する。


「そうかいな。そりゃよかった。この街に来てすぐに仲間が見つかるとは思わへんかったわ」

「仲間?」

「なんや、嬢ちゃんあれやないんか? 月に捕らわれてんやろ」

「月に……捕らわれてる?」


 言った瞬間、美紀の全身に衝撃が走った。

 「月に捕らわれてる」この言葉を口にしたのは紅葉くれはについで二人目だ。


「な、なんのことでしょうか?」

「あれ、違ったか? 実はな。昨日、嬢ちゃんのこと街で見かけてん。ほら、デパートの前。坊さんと話、しとったやろ? そん時の嬢ちゃんを見てワイはピンときたで。嬢ちゃんは捕らわれとるって」

「…………」


 確かに昨日、美紀は気づくと雲水の前に立っていた。瑞穂と二人で騒いだので、誰かに見られていても不思議ではない。だけどそれを見た人と、偶然ここで会うだろうか。それとも美紀が紅葉の店に行ったように、この男もあの店に引き寄せられてここまで来たのだろうか。

 ――もしあなたが歌を聴くことができるなら、わかるはずよ。

 紅葉の言葉がよみがえる。


「あなたも聴けるんですか?」

「聞ける? ああ歌かいな。せや。ワイにもバッチリ聞こえるで」


 ――月に捕らわれているかどうかがね。

 美紀はあのとき理解した。理屈ではなく感覚で。紅葉と佳乃は歌を聴くことができるのだと。月に捕らわれているのだと。


「そんでな、嬢ちゃん。他にもこの街に仲間がおんねやったら、ワイにも紹介してくれへんかな?」

「違う」美紀は呟いた。「あなたは違う」


 目の前の男からは、紅葉や佳乃に感じたような共感は生まれなかった。何より男の口からでる〝月〟という言葉には、自分たちのような喜びや幸福感は含まれていない。


「なんやて?」


 虎児の表情が固まる。


「あなたは月に捕らわれていない。月のことが好きじゃない」


 美紀の口調は力強かった。


「……なんや。風眼坊ふうがんぼうがなりたてや言うから、簡単に騙せるかと思うてたんやが、なかなか……」


 虎児は相変わらず笑みを浮かべていた。だがそれは、先ほどまでと違い、口の端をつり上げた肉食獣を思わせる笑みだった。


「なぁ、嬢ちゃん。ワイが知りたいんは嬢ちゃんの仲間の居場所や。教えてくれたら嬢ちゃんは見逃したってもええで」

「見逃すって……あなた何者なんですか? それになりたてって意味わかんないです」


 気圧されながらも、美紀は気丈に言い放つ。


「なんや。仲間からホンマになんも聞いとらんのかいな。ほったらかしにされとんのか、仲間が悠長なんか……。

 まぁ、ええわ。知らんのやった――」


 虎児の言葉は突然飛んできた何かによって遮られた。後頭部めがけて飛んできたそれを、虎児は右手でガードする。アスファルトの上に音を立てて運動靴が落ちた。


「いきなりやな」


 苦笑しながら虎児は振り向いた。つられて美紀も顔を向ける。


「めぐっちゃん!」


 そこには空手着の上にウインドブレイカーを着た恵が立っていた。右の靴は脱げており、裸足になっている。虎児に靴を飛ばしたのは確かに恵のようだった。


「おっさん。美紀から離れろよ」


 恵は敵意むき出しの顔で虎児を睨む。


「おっさん言うな。で、このタイミングで来たっちゅうことは、仲間か? それとも王子様かいな?」

「なんのことだ?」


 言いながら、恵は虎児との間合いを詰める。


「違う、めぐちゃんは関係ない!」


 美紀は叫んだ。そして虎児の前に出ると、恵を庇うように立ちはだかる。


「美紀、どけ!」

「やだ!」


 恵が美紀に近づく。同時に虎児も動いた。美紀を挟んで二人は接近する。

 先に美紀に触れたのは虎児だった。少女の両肩を掴み、そのまま右横に動かした。

 さほど強い力を加えられたわけではないのに、美紀の体がふわりと浮く。美紀は路側帯の白線を飛び越えるようにして車道へと投げ出された。そのまま何事もなく着地する。

 虎児の眼前、二メートルほどの距離を置いて、恵の姿があった。

 視界から美紀の後ろ姿が消えた瞬間、恵は左足を蹴り上げた。残った運動靴がほぼ直線を描いて虎児の顔に向かっていく。

 虎児は手でそれを払う。まるでタイミングを計っていたかのように、恵は走った勢いそのままで、男の懐まで飛び込んでいた。流れるような一挙動で、正拳を虎児の胸の辺りにたたき込む。

 見事に打ち抜いたと思われた恵の拳には、しかし人を打った感触はなかった。


「なかなかええ踏み込みや。突きもわるうない。せやけど、ワイに当てるのは無理やな」


 恵の放った拳の先――約一メートルのところに虎児の姿はあった。虎児は恵が正拳を放った瞬間、後ろへと飛んでいたのだ。

 相手の動きに恵は表情を固くする。入りのタイミングは会心のものだった。更には靴を蹴り飛ばして不意をついた。お互い警戒している試合ならともかく、あの状態でかすりもしないのは、恵にとってショックだった。


「まぁ、相手が悪かったな。普通の人間やったら、間違いのう当たっとる。そう落ち込むこともないで」


 虎児は口の端を上げて笑った。それは嘲りではない。自信の現れであることが恵にも分かった。同時に、目の前の男がかなり格上であることも。


「…………」


 恵は無言で間合いを詰める。相手が格上であろうともここで引くことは――ない。


「やる気まんまんなんは結構やが、嬢ちゃんの方はええんか?」


 ハッとして恵は美紀を捜す。美紀は恵の左側、車道にぽつんと立っていた。

 美紀の表情は、自分に何が起こったのか分からないといったふうだ。そんな少女の顔色が変わった。美紀が慌てたように叫ぶ。


「めぐっちゃん!」

「ふっ!」


 気づいた時は遅かった。恵が目を離した隙に虎児は間合いを詰めていた。岩を削り出したような手が、恵の目の前にある。顔を握り潰すかのように開かれた手のひら。それは強い威圧感を伴って少年を押さえにくる。

 完全にせんを取られた恵は、動くことはできなかった。


「お前は一般人みたいやから、手加減はしたる。せやけど、邪魔すんねやったら次から容赦せえへんで」


 それだけ言うと男は背を向ける。相手が背中を見せてもなお、恵は動けない。

 虎児はその場を立ち去った。


「めぐっちゃん、大丈夫?」

「ああ。美紀は?」


 近寄って来た美紀の顔を見て、恵の緊張はようやく解けた。


「大丈夫」


 言葉のとおり、美紀は怪我をしていないようだった。


「なんだったんだ、あいつ」

「わからない。でも月の歌がどうって」

「また、月か!」


 吐き捨てるように、恵が言う。美紀はその声に驚いて身を竦ませた。それに気づいた恵が気まずそうに目を反らす。

 二人とも昨日のことを思い出してしまったのだ。


「……め、めぐっちゃん。助けてくれてありがと」


 沈黙が怖くて、美紀は話しかけた。


「あ、おう」

「部活?」

「ああ、ロードワーク中」

「じゃあ、早く帰らないといけないね」

「ああ……」

「じゃあね。本当にありがと」


 美紀は立ち去ろうとする。


「美紀!」


 恵が思わず呼び止めた。美紀がそのまま、どこか遠くへ行ってしまいそうな気がしたのだ。


「何?」

「送って行く」

「だめだよ。めぐっちゃん部活でしょ?」

「なら終わるまで学校で待ってろ。迎えに行くから」

「ふふ」嬉しそうに、美紀が笑う。

「なんだよ」

「めぐっちゃん、ホントにありがと。でも寄るとこあるし大丈夫」

「折原ぁ!」


 遠くから、恵を呼ぶ声がする。見れば、恵と同じ姿の空手部員たちが数名、立っていた。


「…………」

「ほら、行かないと。ホントに大丈夫だってば。うちに着いたらLINEするから」

「……わかった。絶対だぞ」


 恵は靴を履きなおすと部員たちのもとへと急ぐ。それを見送る美紀の顔には笑顔があった。

 美紀は恵が空手部員たちと一緒にいなくなるまで、その場に立っていた。

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