六夜 めぐっちゃん

 窓から見上げる夜空は快晴だった。住宅街の街灯のせいで星の数は望むべくもない。だが月の輝きは、はっきりと見えた。

 美紀みのりは冬の寒さに負けず大きく窓を開け、白い息を吐きながら空を見ていた。部屋着の上には薄いピンク色のカーディガンを羽織っている。

 冬の空に浮かぶは三日月を過ぎたばかりの細い月。満月へと向かい満ち始めたその姿は、細くとも夜空において格別だった。


 月を見る度に、少女は自分がまだ幼かったころの出来事を思い出す。母親に叱られて家から飛び出してしまったあの日のことを。

 あのとき見た月は満月で今の月とは比べるべくもない。けど月そのものが変わったわけではない。

 首筋までの黒髪と全体的に小作りな顔。その中でも大きく形の良い目が目立っている。黒目がちな瞳はいま、細い月を映し出していた。


「お前、寒くないのか?」


 取り憑かれたように月を見つめる美紀の意識は、馴染み深い少年の声によって現実へと引き戻された。


「あ、めぐっちゃん」


 美紀の部屋は二階にあり、窓は南側の生活道路に面している。

 その道路から少年は美紀を見上げていた。門柱に設置された明かりで、少年の顔が浮かび上がる。

 短く刈り込まれた頭。やや釣り上がった目とそこに浮かぶ光は、意志の強さを感じさせる。どことなく斜に構えたように見えるのは引き結んだ口のせいか。

 少年は学校の制服であるブレザー姿だった。


「めぐっちゃんって呼ぶな。俺の名前は〝けい〟だ。〝めぐみ〟じゃないって昔から言ってるだろ?」

「知ってるよ。めぐっちゃんの名前くらい。めぐっちゃんは折原おりはらけい。そしてあたしは来崎くるさき美紀みのり


 美紀の口調は何を今更といったふうだ。恵はわざとらしいため息をひとつ、つく。


「だから〝けい〟なのになんで〝めぐっちゃん〟なんだよ」

「めぐっちゃんは、めぐっちゃんじゃん。昔っからそう呼んでるでしょ? 変なの」

「変なのはお前だ。それよりこんな寒い時になに窓全開で空見てんだよ? なんか珍しいもんでも見えたか?」


 けいは空を見上げた。美紀の見ていたものを探そうとするが、特に変わったものを見つけることはできなかったようだ。すぐに美紀に視線を戻す。


「月を見てたの」

「月?」


 恵は改めて空を見る。


「満月でもないのに、見てて楽しいか?」

「でも、綺麗でしょ?」


 恵は答えない。美紀も返事は期待してなかったのか催促はしなかった。二人で黙って月を見ている。


「めぐっちゃんは部活の帰り?」


 しばらくして、美紀は月から目をはなす。


「ああ」


 そう言って、恵はスポーツバッグを見せた。


「遅くまでごくろーだね」

「一年は、雑用もあるからな。帰るのは最後になるし」

「さすが体育会系。そう言えばめぐっちゃんって、中学校までは道場に通ってたよね? 空手ってそんなに面白い?」

「いいや、面白くはないかな。でも……」


 恵は軽く目を上げて、少し考えるように黙った。そしてすぐに美紀を見る。


「でも?」

「楽しいとは思う」

「面白くないのに楽しい? 変なの」

「うまく説明できないけど、そう思うんだよ。もともと、好きで空手始めた訳じゃないし」

「え? 空手、好きじゃなっかたの?」


 少し美紀は驚いていた。恵は確か小学校二年から空手を習い始めたはずだ。二人は幼なじみということもあってよく知っているが、恵が稽古をサボったと言う話は聞いたことがなかった。


「いや、まぁ好きだよ」

「なにそれ。ますます分かんない」美紀は軽く、眉根を寄せた。「でも、そうやって好きだって言えることがあって、少しうらやましいな」

「お前、Cナントカってアイドルグループ好きだって言ってなかったっけ?」

「CarTooN でしょ? 確かに好きだけど、それとは違う〝好き〟なんだなぁ」

「違う?」

「うん。なんていうか、めぐっちゃんみたいな、うーんホントなんていうか……そうだ、一生懸命な好きじゃないんだよね」

「一生懸命な好きね……俺もそこまで必死になってるつもりはないけど?」


 恵はそう言って肩を竦めた。


「そう? なんか空手やってる時のめぐっちゃんて、必死に見える。普段と違って、すごく真面目」

「最後の言葉に悪意を感じるんだけど」

「やだなぁ。めぐっちゃんの気のせいだよ」


 間髪入れずに、美紀は答える。美紀を見る恵の表情は呆れたふうだ。


「まぁ、空手やってるのも目的あるからな、一応」

「へー、なになに? めぐっちゃんがそこまでする理由、知りたいな」

「やだ。お前には教えてやんねぇ」


 今度は、恵が間髪入れずに答えた。


「あ、その言い方って感じ悪ぅ……って、くしゅん!」


 可愛らしいくしゃみが、美紀の口から飛び出した。


「いいかげん、窓閉めろ。風邪ひくぞ」

「あ、うん。そだね」

「じゃな」


 そう言って恵は隣の家へと入って行く。

 美紀は恵の姿が見えなくなるまで、窓から顔を出し手を振っていた。そして窓を閉めようとした瞬間、何かに気づいたように手を止める。どこからか声を聞いたような気がしたのだ。

 思わず、空を見る。

 冬の空に浮かぶは三日月を過ぎたばかりの細い月。

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