美紀と恵

五夜 それは優しくすべてを包み込むような

 肌を刺すほどに冴えた空気が辺りを支配していた。吸い込む空気は冷たく、吐く息は白い。

 季節は初冬。時間は夜。

 天空に浮かぶ月は満月で、優しい光が世界のすべてを包み浮き上がらせていた。


 美紀みのりも、月の光に浮かび上がった存在の一つだった。ハーフのダッフルコートに身を包みただ呆然と辺りを見回している。

 歳の頃は七歳。首の辺りで短く切りそろえられた髪。形のよい、大きめの目が印象的だ。

 美紀の周りには大きな滑り台にブランコと言った遊具。砂場と動物を象った乗り物。そこは住宅街によくある小さな公園だった。

 だが、美紀にとっては見覚えのない場所だ。


 ――言うことを聞かない子はうちにはいりません!


 母親の叱責が今でも耳に残っている。怖い形相。あれほど怒った母親を見たのは初めてだった。母親が怖くて、自分の言葉が拒絶されたことが悔しくて、いらないと言われたことがショックで、美紀は家を飛びだした。

 行く当てがあるわけでもなくただ逃げるように。そして気づくと、美紀は迷子になっていた。


 どこをどう歩いたのかを、美紀は覚えていなかった。

 母親の言葉を思い出すたびに涙がこぼれそうになる。それを我慢するようにうつむき加減で歩いていた美紀には、自分の歩いて来た道など振り返る余裕はなかった。

 夕刻はとうに過ぎた。公園に人はいるはずもなく、今頃はどの家庭も夕食を家族で囲んでいる頃だろう。


 そう言えば今日は何を作っていただろうか……。そんなことを美紀が考えた瞬間、お腹が空腹に対し抗議を上げた。

 空腹は人の気持ちを心細くさせる。

 怖かった。知らない場所で。ひとりきりで。誰も美紀のことを知らない。誰も助けてくれない。そしてここには美紀以外誰もいない。

 不安が、今まで漠然と感じていた不安が、いきなり美紀の心の中で存在を強く主張し始めた。どこかは判らない場所。誰もいない場所。そこに自分ただ一人。


「お母さん」


 美紀はうつむき、涙声で呟く。どんなに怒られようとも怖い顔をされようとも、心細い美紀が思い浮かべるのは母親の姿だった。

 だが、その母親はここにはない。美紀はただ泣き続けるのみだ。

 その泣き声が、ふと止まった。美紀は顔を上げ辺りを見回す。少女の泣き声が消えてしまえばそこは静寂の支配する夜の世界。

 美紀は静寂の中に声を聞いたような気がした。微かだが、女性の声を。それは泣くのをやめさせた声。優しくすべてを包み込むような、細く高く澄んだ声――


「だれ? お母さん?」


 母親の声とは違うと美紀には分かっていた。それでも言ってしまったのは、包み込まれるようなその声に母親の抱擁に似た安心を感じたからか。

 聞こえてくる声は相変わらず微かだ。それが一定のリズムを持っていることに美紀は気づいた。

 それはまるで――


「歌?」


 声は美紀に語りかけていると言うよりも、歌っているようだった。何を言っているのかは判らない。でもそれは確かに歌だった。

 どこから聞こえてくるのだろう。美紀は辺りを見回した。

 小さな公園だ。七歳の子供でも見回せば誰もいないことに気づくくらいの。なら近くに見える住宅から聞こえているのかとも思った。

 しかし声は、目に見える家々のどれよりも遠くから聞こえて来るような気がした。

 それでいて歌は美紀を包むように、まるで抱擁してくれているような安心感を与えてくれる。まるで見守ってくれているような。


 美紀は先ほどまであった不安が嘘のように消えていることに気づいた。

 その歌を聴いていると安心とともに心に力が沸いてくる。

 意地でも歌っている本人を見つけたくなって必死に耳を凝らせた。小さな両手を耳に当て、目をつむり、息を止めて歌を聴こうとする。まるで自分の息づかいでさえ邪魔だというように。

 止めた息の限界が近づくころ、美紀は何かに気づき弾かれたように空を見上げた。

 そこには、真円を描き輝き続ける月の姿があった。

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