画面の向こう、灰色の夏

山南こはる

第1話

 カーテンを開けると、外は灰色の海に沈んでいた。


 七月のはじめ、梅雨終わりの最後の雨が、灰色の雲を絞るように降っている。通行人は誰もいない。時おり車が、しぶきを上げて水たまりの上を走り抜けていく。


 緊急事態宣言は今もなお撤回されていない。二〇二〇年夏。ほんとうならオリンピックが行われるはずだった二〇二〇年の夏は、沈黙の夏になってしまった。


 カーテンを閉めた。学校は休校中。課題、自習。今日の分はすべて終わった。この期間でどれくらい頑張れるかで差がつくのだと、担任が言っていた。


 ミホは自分で、比較的頑張っていると思う。時計は二時になろうとしている。約束の時間までもう少し。ベッドに寝転がって、ゲーム機のスイッチを入れる。明るい黄色の筐体が、目にまぶしい。


 ミホの分身が、ゲームの世界で目覚める。リカはもう待っていた。ベッドに投げ出したスマホ。LINEでチャットをしながら、ゲームの画面を見る。


『遅いよ』

『ごめん』

『課題やってた?』

『そう』


 リカの本名はリカコだ。ほんとうはショートカットでスポーティな格好ばかりしているのに、ゲームの中の分身は、ひらひらした白いワンピースを着ている。リカコはこういうのが好きなんだとはじめて知った。


『ジュンちゃんとゆりえさんは?』

『遅れてくるって』


 ミホとリカコは友人だが、ジュンちゃんとゆりえさんには会ったことがない。ネットで出会ったゲーム友だちだ。ジュンちゃんは大阪の女子高生。ゆりえさんは東京で看護師をしているらしい。


 リカコと他愛ないことをしゃべりながら、ゲームをした。花に水をやり、釣りをして、虫を捕まえる。リカコとは別人のリカが、ほんもののリカコと同じように自然の中を走り、虫を捕まえている。


『宣言、いつ解除されるんだろーねー?』

『分かんない』


 ミホたちの暮らす街でも、感染者は増え続けている。大阪や東京ならもっとだろう。前回、ゲームの世界で会った時、ゆりえさんは「すごく忙しい」と言っていた。もしかしたら今日も、来られないかもしれない。



 ♢ ♢ ♢



 少しして、ジュンちゃんが来た。

 相変わらずゴテゴテしたキラキラファッション。ジュンちゃんは自分を女子高生と言っているが、たぶんウソだ。すごく背伸びしている感じがする。ほんとうは中学生か、ひょっとしたら小学生かもしれない。リカコがリカで、ひらひらしたスカートを履いているみたいに、ジュンちゃんも自分を偽っているのだろうか。


『大阪はどう?』


 東京、大阪、名古屋。千葉や、神奈川。大都市圏での感染者はうなぎ上りだ。


『やることなくて、ほんまにヒマ』


 ジュンちゃんの分身が、木を揺らしてリンゴを落とす。


『勉強してる?』


 ジュンちゃんにそう訊いたのはリカコだ。リカコもジュンちゃんが女子高生じゃないことを疑っている。


『してない。ぜんぜん』


 ミホはスコップを片手に地面の割れ目を掘り返す。化石をカバンの中に入れる。遠い未来、人間の化石が発掘されることがあるかもしれない。


 時計が四時半を回った。ミホは電気をつける。ゆりえさんは来ない。やっぱり、忙しいのだろうか。

 もう少ししたら、テレビでもインターネットでも、速報が流れるだろう。今日の感染者。マスクの不足、医療崩壊。ゆりえさんは看護師だ。日本でいちばん感染者の多い、東京の看護師だ。すごく大変なのだと思う。ゲームなんかしている暇は、きっとないのだと思う。



 ♢ ♢ ♢


 ジュンちゃんがご飯を食べるというので、集まりはお開きになった。

 ニュースアプリでは、次々に速報が入ってくる。感染者は増えることがあっても、減ることはない。今日の東京の感染者は四百人を超えた。千葉の老人ホームで新しいクラスターが発生し、また地方の旅館がつぶれた。東京では二十代の女性看護師が死んだという。大規模クラスターが発生した、総合病院の看護師だったそうだ。


「……」


 東京に看護師なんていっぱいいる。二十代の女性看護師なんて、たぶん、たくさんいるはずだ。


 でもミホの中では嫌な予感が膨らんでいく。頭の中で、会ったことも、文章とゲームのキャラクターとしてしかやり取りしたことのないゆりえが、死んだ看護師の姿に重なっていく。


 ゲームの世界なんて、いくらだってウソをつける。リカコはリカだし、ひらひらのワンピースなんか履いているし、ジュンちゃんはたぶん小学生なのに女子高校生のフリをしている。

 でもミホ自身はウソをついていない。ゲームの世界でも、現実と同じような髪型をして、同じような服装をしている。パッとしないミホ。取り繕わないミホ。ゆりえさんはスタイリッシュでおしゃれだった。あれはウソではないと思う。


「……」


 感染は広がっていく。

 二〇二〇年の夏は灰色の夏だ。



 ♢ ♢ ♢



 翌日も翌々日も、それから数日待っていても、ゆりえさんが来ることはなかった。


 ジュンちゃんは怒ってチームを抜けてしまった。どうやらふたりの間で、アイテムのやり取りを約束していたらしく、それを破られたから怒っているのだ。


 ゆりえさんが東京の看護師であることを、ジュンちゃんは知っているはずだ。なのにジュンちゃんはあんなに怒っている。ジュンちゃんが女子高生というのは、やっぱりウソだと思う。


 画面の向こうで起きていることは、現実の世界のことのはずなのに、何となく実感が沸かない。いくらニュースで大都市圏の感染増加が騒がれていても、ずっと家にいるミホにとっては、知らない外国の飢餓問題と同じくらい遠い世界の出来事だ。




 だが感染は日に日に広がっていく。画面の向こうの世界だけでなく、それはミホたちの街も同じだ。ある日からリカコも遊びにこなくなった。べつの友人からの連絡で、リカコが感染したことを知った。今は入院しているらしい。リカコ本人からは何の連絡もなく、ミホのメッセージに既読もつかない。


 ミホが外に出るのは、コンビニに行く時くらい。マスクで顔を覆う人。足早に通り過ぎてく人。シャッターを閉めた商店街。長引くかぜみたいに、しつこい梅雨空。


 大阪の空も東京の空も、きっと雨が降っているのだろう。待てど暮らせど、ゆりえさんは遊びにこない。


 暇がなかったから。ゲームに飽きてしまったから。ゲームが壊れてしまったから。それならいい。それでいいのだ。顔も声も知らないゆりえさんが、元気でいてくれればそれでいい。


 ゲームの世界では、みんながみんな、自分を取り繕ってウソをつく。リカコはリカだしひらひらのワンピースなんか着ているし、ジュンちゃんはきっと小学生で、ほんとうはおしゃれでも何でもないのだと思う。

 ゆりえさんが東京の看護師だったのか、それを証明する真実なんか何ひとつなくて、それでもミホにはなんとなく分かるのだ。ゆりえはウソをついていない。彼女が看護師でおしゃれな人だというのは、ほんとうだと思う。たぶん、ゆりえという名前も本名だ。


 分厚い灰色の雲。降りしきる雨。二〇二〇年の夏は灰色の夏だ。沈黙の夏で、絶望の夏だ。リカコも感染し、たぶんそのうち、都市部は大規模な封鎖に踏み切るだろう。東京では感染が広がっていて、二十代の看護師の女性が死んで、ゆりえさんはゲームの世界に遊びにこなくなった。


 ただ、それだけ。

 たった、それだけなのだ。




 いつかこの梅雨が終わって、空が晴れた時、灰色の時間は終わるのだろうか。またリカコに、ひらひらのスカートなんか履いていないほんもののリカコに会えるだろうか。


「……」


 ミホは空を見上げた。東京まで続くはずの空はまだ、晴れる気配はない。

 名前も顔も知らない、東京の二十代女性看護師のゆりえに、もう一度、会いたかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

画面の向こう、灰色の夏 山南こはる @kuonkazami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ