第一章 十話 血のくちづけ
葉牙助は無意識に背筋を伸ばして、岩壁から背を離し、身を乗り出していた。
ちかちかとした視界に、ほどかれた黒髪を陽炎のように揺らしている姿が映る。
「影……虎……?」
一度俯いた影虎は、ふたたび顔を上げた。黒く長い髪が、細い線を描いて白い顔にかかり、妖艶な姿は、凛としたいつもの姿と遠く。
葉牙助とかち合った金色の瞳の瞳孔は、縦に細い黒を描いていた。
その眼光の鋭さに恐れを抱き、一瞬びくりと体を震わせる。
影虎は項垂れながら立ち上がり、力を抜いた上体をゆらりと揺らす。髪が幽霊のように顔を覆った。虎のように力を入れて立てた爪のゆびさきを等間隔に体の左右に伸ばすと、音頭をとるように上体を起こした。
まぶたを閉じ、微笑みを浮かべた満足そうな彼女の顔は、どこか恍惚としていた。
龍生は瞳を眇めて形の良い眉を寄せ、影虎を睨んでいた。
影虎は右手をゆっくりと胸の位置の高さまで上げた。
そして、ひとさし指を龍生に向けてすっと伸ばすと、第二関節をちょいちょいと曲げる。
煽るようなその仕草に、龍生は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「貴様……。刀と己の血を共有したか……」
「……くく……」
影虎は、歯を見せて不適な笑いをこぼすと、手を下ろし、龍生へ向かって駆け出していった。
真横に刈るように刀を動かすと、黒い残像が浮かび上がる。
龍生はさっと両足を上げ、斬撃を避けるが、影虎の刀がそこに吸い寄せられるように迫っていた。
「くっ……」
龍生は白い額に汗を浮かべる。
彼の焦ったようなその顔に、影虎は嬉しそうに微笑んだ。
「くく……どうしたよ。おい」
(この女……、自分の血と刀の血管を繋げている……。この状態になった所有者と戦っても勝ち目はない……)
龍生は瞳を眇めて影虎を睨む。灰青色のひとみが、溶けるようにひかった。うすく白いくちびるを開け、歯噛みし、刀を払うと、背を向け、鍾乳洞の奥まで駆け降りた。
「逃げるなよ……なあ」
影虎は不適な笑みを浮かべて、胸を逸らすと龍生の後を追った。髪が扇のようにはらりと彼女の体を覆う。いつの間にか
龍生の黒髪ゆれる背中に追いつくと、後ろから刀を放るような形で袈裟斬りを与えた。彼の背中から、右斜めに血が噴出する。飛び散った赤は、白い衣にはらはらと桜の花弁のように舞い落ちた。
龍生はひとみを眇めて、細い眉を寄せると、口を開けて短い息を吸った。
体勢を崩し、数歩足を崩して前屈みによろめくと、うなじでまとめた髪がふわりとゆらめき、束になっていた髪が龍の尾のように、線となって風に乗る。
白い頬や額にも、背中からの血が散ると、彼はすべての力をなくしたかのように、鍾乳洞の中を流れる川に落ちた。
赤や青のひかりの粒が浮いている黒い川は、彼を飲むと、より勢いを増した。
飛沫が上がり、水に飲まれると、透明な水面に血が滲むように広がった。
影虎は川辺に近づくと、川に落ちた龍生を見下ろした。彼女のおろした黒髪が、ひらひらと小風に吹かれて、絹のように流れ揺れる。
薄闇の中、顔に影をまとって、金色の目をぎらぎらと光らせる影虎は、鬼のような形相をしていた。
数秒たち、漆黒の刃についた血を払うと、斜めに下ろした手の動きをひたりと止める。
「ぐっ……」
影虎は急にもがくように、苦しげに顔を歪ませた。
全身をがくがくと震わせると、くずおれるように地に膝をつき、前へ倒れる。蝋燭の火が消えるような力の抜け方だった。
一拍置いて、背に広がる黒髪が扇のようにはらりと広がった。
頬を湿った鍾乳洞の地へつけた影虎は、まぶたを閉じ、薄くくちびるを開けて眠るような顔になっていた。先ほどまで鬼が宿ったような彼女の顔は、少女のものへと戻っていた。
ぴちょん、と上からひとつ雫が落ち、かすかに上向いた影虎の長いまつげの上に宿って、透明に滲んでいった。頬に落ちると、涙のように流れて消える。
葉牙助は駆け出して影虎に近寄ると、彼女のかたわらに両手と膝をついた。
「影虎!!」
顔を近づけて、影虎を見下ろすと、青白い顔が光る雪のように、薄暗い中に浮かび上がっている。死に顔にも見える凄絶なうつくしさだった。
「やったよ!! お前、龍生を倒したんだ!勝ったんだよ!!」
葉牙助は倒れた影虎の肩を、両手で掴んだ。強い力だった。
かくりと彼女の顎が上がり、頂点になめらかな光の粒が宿る。
「おい……しっかりしろ!」
葉牙助は影虎の体をかるく揺さぶった。
影虎は目を開けることもなく、うすくくちびるを開けているだけで、反応しない。先ほどまで桜色だったそれは、いつの間にか紫陽花のような青紫色に変わって乾いていた。
葉牙助は、瞠目し、瞳を震わすと彼女を揺さぶる腕の動きをひたりと止めた。
(こいつ……息してねえ……! まるで血抜きされた動物みてえだ!)
いつの間にか、彼のまなじりに熱いものがあふれ出していた。
肩を抱く手を、彼女の背に回すと、半身を抱きしめる。
瞼を閉じると、なめらかな頬を熱く汚す大粒の涙が、次からつぎへと流れ出した。
前歯でくちびるを噛みしめ、体を細かに震わせる。
「影虎……」
肩にかかっていた影虎の黒髪の房がこぼれ、あらわになった首筋に顔を埋める。
背に回した腕の力をいっそう強めると、涙の粒が強い光をともなって、ほろほろと乱れて落ちた。
「死ぬなよ! 俺はお前と一緒に江戸に帰るんだ! お前の刀を、この世から完全に消し去る方法を見つけるって言ってたじゃねえか! 俺が一緒に探してやる! お前に兄さんの手料理食べさせたり、江戸の町を案内したり、綺麗な女の着物だって買ってやる!! だから死ぬなよ!」
涙でぐしゃぐしゃになった目をそっと開くと、かたわらに純白の月のひかりのような、ぼんやりとしたものが感じられ、葉牙助はそっとそちらに目を向けた。
「あれ……。龍生の刀……」
なんの戦いの痕跡も見せない清らかな姿で、真白い月白切冬景は静かにそこに佇んでいた。刃は鞘にしまわれず、剥き出しのままである。
葉牙助は影虎をゆっくりと寝かせると、冬景のそばへ歩いて行った。腰を屈めると両手で掬うように拾い上げた。
真剣に冬景を見つめる葉牙助の脳裏には、龍生が言った言葉が浮かび上がっていた。
「二口の刀を手にした者は、……吸血鬼になれる……」
葉牙助はかっと目を見開くと、冬景を強く握りしめる。鞘は新雪のように冷たく、一瞬皮膚をつけるのが躊躇われるほどだった。どことなく刀身から深まった冬の香りがする。
すっくと立ち上がると、踵を返して影虎の元へ駆けていく。
影虎の片手に冬景、もう一方に春景を握らせた。力の抜けている彼女の白い手は、その鞘を掴むことはなかった。葉牙助が彼女の細いゆびを一本一本動かし、ゆっくりと握らせる。
葉牙助のこめかみに、汗がたらりと流れ、しずくとなって落ちる。
「影虎……甦れ……。俺の血を全部吸ってもいいから……」
歯を強く噛む。
影虎は、半分伏せた瞼を苦しげに揺らした。そして口をうっと横に伸ばすと、獣が唸るような呻き声を漏らした。
「影虎!!」
影虎が気づいた。
葉牙助はまなじりに涙を溜めたまま、あかるい笑顔を浮かべた。
「う、ああ……」
影虎はゆっくりと口を開ける。
上顎と下顎をつなぐ唾液を抜けて、淡く黄色がかったやや灰味の白色をした牙が、ぎらりとあらわれた。彼女の特徴的な八重歯が、変化して虎のようになっている。
鈍いひかりを宿すそれに、葉牙助は唾を飲むと、意を決して着物を勢いよくはだける。
細い肋の浮きでた、なめらかで健康的な若い胸と鎖骨があらわになる。
影虎は横になったまま、まぶたを開けて、瞳だけを動かして彼の肌を睨んだ。金色の瞳が、いっそう濃く溶けた色をし、うすやみの中で光をはなっていた。
葉牙助は、獣のようになった彼女を恐れず真っ直ぐに見つめる。
「影虎! 俺の血を吸え!」
葉牙助の叫び声が、こだまする。
影虎の流れる髪を、びりびりと痺れさせるほどだった。
一拍時が流れる。葉牙助は息を止めた。口の中が乾いているが、熱い。
影虎は勢いよく上体を起こすと、牙を剥き出し、白いまなこに血を走らせると、鋭いまなざしで葉牙助を睨む。
影虎はうつろに葉牙助をじっと見つめていた。
葉牙助のくちびるの皮が、いつの間にか切れていた。涙が伝うように、顎に血が流れている。
影虎はそれをみとめると、葉牙助の頭を片手でそっと抱き寄せた。
「え?」
葉牙助が目を見開く刹那、なめらかな白いまぶたがうっとりと伏せられるのが、眼前にうつった。
くちびるに、やわらかなものが触れる。
影虎のくちびるが、葉牙助のちいさなそれに羽のように触れたかと思うと、覆い被すような熱いものへ変わった。
葉牙助は予期せぬ出来事に、瞳を極限まで見開いていた。
影虎のくちびるの感触が、時が経つごとに深く、彼女の体温や感触がはっきりと感じ取れるようになった。
影虎がかすかに首の角度を変えると、より深く、ふたりのくちびるは絡まった。
葉牙助は、瞼をぎゅっと閉じた。暗黒の中で、生々しい吐息の感触をはっきりと感じとれる。
「むう……、ん……!」
「ふ……」
わずかに開いたくちびるの隙間から、影虎の吐息と、葉牙助の血がこぼれ、ふたりの境を生ぬるく繋いでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます