第一章 最終話 十護郎の笑顔

 先ほどまでしんと静かな夜の色だった視界が、ゆっくりと開けてゆく。

 焦茶色の天井には、吠える虎が滲むように描かれていた。それがしみだと気付くのにしばしの時間がかかった。したまつげが震えている。深い眠りから目覚めたばかりだからだろう。体全体が、ほどよいぬくもりで包まれている。肩からゆびさきまで、感覚が戻ってゆく。

 影虎はおぼろなまなこに、徐々に活力が戻ってくるのを待っていた。半分伏せられたまぶたに、かすかに開いた障子から、朝の白いひかりが差し込み、まぶしさに目を眇める。

 うすく開いたくちびると、まぶたと頬に、すっとひとすじ雨のように光が流れる。


「ここは……」


 自分が和室で寝かされていることに気付く。傷ついた体を覆うようにかけられた桔梗色のやわらかな薄い掛け布団を、片手でそっと上げると、剥き出しになった肩に、かすかに冷えた空気が触れた。

 静かに己の体を見下ろすと、鎖骨から胸、腹を、交差するように包帯が巻かれており、龍生との戦いでの傷がところどころ塗り薬で手当されていた。だが染みるような痛みは未だ全身に感じる。


「……ふうん……」


 目をあげてさまざまなことを理解すると、上がった前髪があらわにした富士額に、冷えた風があたり、うっとまぶたを半分伏せた。

 孤独だが穏やかな、静かな時間が訪れる。

 からりと障子が開く音がした。

 顔を上げると、十徳を着た背の高い男が逆光となってあらわれた。黒い影だけが、白い背景に浮き上がって見える。

 風が背後から吹き、先でまとめた彼の長い髪がふわりと横に揺れた。


「気がつかれましたか」


 低い男の声だが、どこか透き通って玲瓏なうつくしい響きが、彼女の頬を撫でた。


「……あんたは」


 肩があらわになっていることがなんとなく気になり、それを隠すように掛け布団をかける。

 男はしずかに影虎の顔の横に正座した。

 彼が座った瞬間に、彼を頭上から照らすように光が降り注いだ。

 まぶたを閉じた男の顔は、女のように優美でたおやかであった。くっきりとした二重。先ほどまで焦げた茶色に見えていたというのに、陽に照らされて、透き通った茶色に変わる長い睫毛と、ふわりと先で薄紫の紐で結われた、たわんだ長い髪。白い単に羽織る形でまとった黒い十徳は、彼のしずかな佇まいによく似合っていた。草花の入り混じった薫り高いものを感じたが、それが男の体から放たれているものだった。しばらくして、それが薬のにおいだということに気づいた。

 死の世界に来てしまったのかと思うほど、うつくしい男の姿に、影虎は無意識に目をみはっていた。

 彼女の視線を感じたのか、男はゆるりと視線を彼女の方へ向ける。長いまつげが枯れ葉色のひとみを覆うようにおりており、妖艶な雰囲気を纏っていた。うすくくちびるを開けて微笑みを浮かべる。


「鍾乳洞で回復した後、すぐに気絶してしまったあなたを抱えて、江戸まで葉牙助が運んできたのです」


 男の枯れ葉色の瞳に、幼く活発な誰かと同じ色を感じ、影虎は徐々に目を見開いた。


「江戸……」


 衝動的にがばりと身を起こすと、癒えていない傷口がかすかに疼き、歯噛みすると、そっと痛みに手を当てた。


「葉牙助……」


 影虎の肌に、鍾乳洞の湿度や水のにおいが戻ってくる。


「葉牙助? 葉牙助は!? あいつはどこにいる!」


 顔を左右に動かし、あたりを探す。おろしていた長い黒髪がゆらゆらと揺れる。見慣れたあのちいさな少年の姿はどこにもなかった。床の間に橙色の山百合が一輪、飾られているだけである。

 少し驚いた顔をし、男は穏やかな笑顔になった。


「弟なら……」


 男が少し腰を浮かせると、呼応するように廊下を駆けてくる音がする。ぱたぱたという子犬のようなそれは、耳に馴染みがあった。

 影虎は、背筋を伸ばしてはっとした顔で廊下を見やる。

 金色の瞳の虹彩が陽光をあてられた琥珀のように、まだらにきらめいた。

 障子が勢いよく開く。

 光を浴びて輪郭を白くする庭のみどりを背景に、あかるい笑顔の葉牙助が現れた。


「影虎!」


「葉牙助!!」


 葉牙助は駆けると跳ね上がり、影虎に抱きついた。


「よかった! お前、元気になって! あのまま十日も寝込んでたんだから!」


 彼女の背に腕をいっぱいにまわし、よしよしするように動かす。まなじりに涙をため、ほっとしたように笑いながら。血の通ったあたたかさに触れ、影虎の身体はじんと泡だった。


「十日……?」


「道中のことは弟からすべて聞きました。弟を護ってくださり、本当にありがとうございました」


 かたわらにいた男が、ふたりを見つめ、いっそう優しげに微笑む。顔全体に春が溶けたような印象のやわらかな笑顔だった。


「じゃあ、あんたはこいつの兄貴の……」


 影虎は葉牙助の背にそっと手を回し、男を振り返った。

 男は影虎と目が合うと、満面の笑みを浮かべる。顔全体に春の花弁をとおした淡い朝のひかりが溶けたような、印象のやわらかな笑顔だった。


「ええ。私は一橋十護郎と申します」


 影虎は道中での葉牙助の話を思い出した。

 彼の兄の十護郎だった。

 障子から吹いたそよ風が、十護郎の前髪をゆらしたのを機に、影虎は何かに気づいて、葉牙助の背中から片手を離し、畳に手をついた。


「……俺の、俺の刀は……?」


 龍生と共に戦ったはずの春景が手元にない。腰にもない。どこにもない。

 慌てた様子の影虎を落ち着かせるように、葉牙助は彼女の背に回した手をゆるめ、笑顔で彼女を見上げた。


「お前の刀と龍生が落としてった刀は、俺が預かってるよ。お前の刀は返すけど、龍生の刀は俺が預かる。お前が刀をこの世から消す方法を見つけるまで、俺が持っててやる。そんで、手伝ってやるよ、お前の目標を」


 葉牙助の瞳は今まで見たことのないほど、きらきらと輝いていた。透明な湖の水底に沈んだ枯葉のように、深い茶色の虹彩までも揺れ動いているのが、はっきりと見える。


「お前……」


 影虎も瞳をゆらした。耳にかけていた彼女の髪が、ひとふさ肩に落ちて揺蕩う。


「あとで兄さんの飯食えよ。そんでもっと元気になったら、お前を江戸の楽しいところにいっぱい連れて行ってやる!」


 葉牙助はまかせろ、と言うように、自分の胸をこぶしでとん、と叩いた。戦闘の最中、臆病な面も見せていた少年の、一皮剥けた男らしいその仕草に、影虎は少し驚いて口を開けていた。

 だがゆっくりと、まぶたを閉じ、俯くと、力を抜いた笑みをくちもとに浮かべた。

 歯を重ねたとき、ふと自分の八重歯の違和感に気付き、指を口の中にそっと入れると、先を撫でてみた。


(しっかし、俺の八重歯、こんなに長かったか?)


 和室に飾られた山百合の橙色の花弁が、ひとひら誰にも気づかれずに散った。それを隠すように、強く白い光がそこに落ちる。

 どこからか米の炊けるにおいと、味噌汁の豊かな香り、温かい茶のほのかな薫りが漂ってくる。

 それは懐かしくからだに触れてくるものであった。

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