第一章 九話 影虎はこの俺

 闇を地の色とした鍾乳洞の赤と青の鈍いひかりの世界に、くっきりとした黒白が、散りゆく花弁のように放たれる。

 影虎と龍生の顔が近づいては離れていくのを、葉牙助は少し離れたところで、ただ呆然と見ていた。地についた手のひらに、じわりと冷えた岩が触れている。濡れたそれと呼応するように、手の甲に、生ぬるい汗のつぶが浮く。

 彼は片手をあげると、胸元にそっと置いた。

 汗が流れ落ちる。

 衣にも、湿ったものが移った。

 氷と氷がぶつかるような高い音を反響させて、影虎と龍生の刀はぶつかっては離れていく。刀の閃光があらわれるたび、影虎の白い顔が、険しく眉を寄せ、薄暗い鍾乳洞の中で、浮かび上がっていた。

 つるり、とした音を上げて、ふたりは離れた。つま先を立てて、影虎は衝撃に耐えて、体勢を保とうとする。

 龍生はまっすぐに立ち、一度刀の刃を払うと、両手で持っていたそれを片手だけに変えた。

 そして一度まぶたを閉じると、かっ、と見開き、駆け出す。風に吹かれた布のような、なめらかな動きだった。

 影虎は、さっと片腕を上げた。そこに示し合わせたように龍生の刀が落ちる。彼女は俯いたままだったが、本能的に斬撃を感じ取ったのだ。

 龍生は、さっと両足を上げて、飛ぶように彼女から離れる。ふわりと音も立てずに舞い上がる彼のそれは、舞台で踊る能役者のようだった。

 影虎は地を蹴ると白く舞い落ちる龍生に向かって、刃を落とそうとする。虚空に黒い残像を描いて、陽黒が龍生の胸を、まっすぐに突こうとする。

 だが、その刹那、龍生はにやりと微笑むと、まぶたをとじ、体をくの字に曲げて影虎から離れた。首を落とし、波のように、つむじでひとつに結われた黒髪がゆらりと揺れる。まるで影虎の刃が彼を貫く前に、何かが彼の胸を突いた、そんな動きであった。

 龍生のくちもとが、邪悪に歪む。

 それに気付き、影虎は、はっとした。

 龍生の片手に持った刃が、真横に一閃する。純白の残像が、ふたりの間に一瞬生まれた。

 飛び上がるふたりを見上げた葉牙助の大きな瞳に、後ろに反った影虎の胸から、あざやかな赤が噴き出すのが見えた。

 葉牙助は、瞠目し、くちびるを震わせた。まなじりに涙が溜まる。

 影虎が背中を打ったのと同時に、龍生はふわりと地に降り立った。


「あっ……、がっ……」


 息を止められたかのように、苦しげに影虎が呻く。彼女がもがくたびに、斬られた胸から、どくどくと血が流れ出し、白い鎖骨や、指を染めてゆく。


「はっ……!」


 月光を凝縮したような色をした影虎の眸が、徐々に闇に沈んでいく。


「影虎!!」


 葉牙助は叫ぶ。声は鍾乳洞の壁に反響した。

 龍生は静かに歩みはじめ、倒れた影虎をつめたく見下ろすと、さっと刀の血を払った。

 そして顔を上げる。彼の視線の先にいたのは、葉牙助であった。

 龍生の澄んだ灰青色の瞳が、まっすぐに彼を見つめていた。


「あっ……」


 葉牙助は、狙われたうさぎのように、身をすくめる。何気なく右手を置いた己の肩が、小刻みに震えていた。

 龍生は、ここが能の舞台であるかのように、静々と地に足袋をつけたまま、体の方向を変えて、ゆっくりと葉牙助に近づいてくる。足音は煙のように消えていた。

 葉牙助はそれに気付き、尻をついたまま後ずさった。だが、彼の背後に広がるものは、ぬるりとした鍾乳洞の壁である。慌てて手を背後に回すと、つるつるとした凸凹が、行く手を遮っていた。


 うつ伏せに倒れたままの影虎は、汗を浮かせた青白い顔を横に向け、半分伏せたまぶたを痙攣させながら、葉牙助を見つめていた。

 体から流れる血と共に、生気を失っていくのがわかる。

 彼女が、かすかに視線をあげると、龍生の後ろ姿が目に入った。ぼやけた視界でもはっきりとしている純白の水干。そこに龍水紋のように流れる黒髪。遠ざかる男の背中は、ちいさな少年の元へ行こうとしている。

 影虎は、握ったままの己の刀を見やった。胸から流れた血で濡れた白い手は、未だしっかりと陽黒の鞘を握っている。

 握った手に、さらに力を込めた。

 物言わぬ刀に、念を送るように。

 離れた左手も鞘に添え、右手を包み込むようにぎゅっと握りしめる。


(陽黒切春景と言ったか。頼む。今だけでいい。俺に力を貸してくれ……。俺の血をすべて、お前にやるから……)


 まぶたを強く閉じると、刀を体に近付け、額に鞘を当てた。抱きしめるようにぎゅっとうずくまる。

 握ったてのひらから、血が伝い降りてゆく。

 鞘から溢れたそれは、川のようになめらかに漆黒の刃の上を流れていった。


 どくん


 心臓が脈を打つような、大きな衝撃が、彼女の全身を巡った。血脈のすべてが、生まれ直して、あざやかに波打っているようだった。

 閉じていたまぶたを薄く開いた。

 金色の瞳が、一層色を濃くし、何かを悟るように、琥珀色の輝きを見せた。


 葉牙助は蛇に睨まれた蛙のように、体が硬直していた。 

 龍生は鍾乳洞の色をした不気味な影を顔にまとって、葉牙助を見下ろしていた。水辺と同じ色をした瞳は、一見穏やかだが、鋭利な刃物のように冴えていた。

 龍生が片手を上げる。 

 薄暗闇の中で、鈍いともしびを宿す白い刃が、剥き出しになった龍の牙のように葉牙助には見えていた。  

 すべてを諦めて歯噛みする。白い前歯で、軽く下唇を噛む。

 まぶたをぎゅっと閉じると、離れた兄の後ろ姿が見えた。

 つややかな長い茶色の髪の先を、腰の辺りで緩く結んだ、背の高い見慣れた姿。


(兄さん……)


 目の奥が、白くぼやけて霞んでいく。

 かちゃり、と鋼が岩肌と擦れるような音がして、思わずまぶたを開いた。


「えっ……?」


 龍生も、足を止めて背後を振り返る。

 倒れていたはずの影虎が、片膝をついて半身を起こしていた。

 うなだれた彼女の横顔は、長い前髪で覆われ、目元は見えなくなっていたが、桜色のくちびるは歪に上がっている。特徴的な八重歯が、その薄暗い笑みをより奇妙に見せている。


「お前が影虎? 笑わせんな」


「影虎……?」


 口を開いた影虎の声は、いつも聴いていたものよりも、歪んで低くなっていた。誰かを嘲笑するような響きだった。

 気付けば、葉牙助の二の腕は鳥肌が立っていた。

 影虎は、龍生の方にゆっくりと顔を向けた。

 気のせいか、葉牙助には彼女の顔を覆う黒い前髪が、そのとき不自然に、ふわりと浮き上がったかのように見えていた。


「影虎は、この俺様だろうがァよぉ」


 金色の瞳を爛々とひからせ、あでやかな笑みを浮かべる影虎の白い顔を見たとき、葉牙助はぞくぞくと爪先から悪寒が首筋まで這い上がっていくのを感じた。全身の血流が、一瞬ぶわりと泡をはらんで逆流する。

 龍生も、先ほどまでとまるで雰囲気の変わった彼女に驚き、目を見開く。彼の長い黒髪が、一瞬痺れたように震える。

 うなじでひとつに結ばれた影虎の髪がほどけ、扇のように、はらりと背後に広がった。全身を覆うその長い黒は、本格的な闇がこれから訪れることを予感させるようだった。

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