第一章 八話 葉牙助の過去 

 青や赤の鈍い光沢が、しっとりと濡れた鍾乳洞の壁に、ぬらぬらとなだらかな突起を描いている。

 影虎と葉牙助の体に、それらの色は反射して、鈍く照り返している。

 葉牙助はうすぼんやりとしたまなうらに、轟轟と、何か清らかなものが流れる音を聞いていた。凛として冷えた、濁りない音。

 川だ。鍾乳洞の中を、川が流れている。暗いそこを流れるそれにも、色彩は反射している。湿度の高い鍾乳洞の中にいると、何もしていなくとも肌がうっすらと濡れる感覚がしていた。

 かすかに開けた視界に、ひやりとした空気を纏ってそれはうつっていた。やがて焦点が定まってくると、目の前に見慣れた黒い影が見えた。近づくほどに、華奢で丸みを帯びた女の輪郭だということがわかる身体。

 乾いたくちびるで声を漏らす。掠れたその声は、くぐもった鍾乳洞の中でも、比較的くっきりと重力を持って響いた。

 岩壁から水が滴り落ちる音が、それに重なる。

 影虎は目覚めたばかりの葉牙助のくちもとへ、手をお椀の形にして汲んだ水を寄せた。透明なそれは、彼女の白い手のひらの皺の影までもくっきりとうつしている。


「飲め」


 影虎の凛とした声に、葉牙助は無意識にくちびるを伸ばし、彼女のゆびにくちづけるように触れる。水はあまく、澄んでつめたく、彼の乾いた喉を潤した。

 本能のまま、赤子のようにうっとりと瞳を閉じ、こくりこくりと一気に飲み干した。

 彼女の手が離れたかと思うと、そっと葉牙助の強張ったちいさな肩に触れた。黙って項垂れたままの彼の背を、そばの岩壁にもたれさせた。背中に、岩の凹凸の感触がする。痛くはな

かった。体の重力をそちらに任せると、肩に置いた手に力を込めた。


「おい、あいつ巻いたぞ。お前はここで落ち着いてろ。いいな。絶対に外に出るなよ」


 暗い鍾乳洞に、影虎の凛とした声が青い色をまとって響く。


「う……」


 葉牙助の意識がよりはっきりとしてきた。

 影虎の白い顔が見える。

 葉牙助は歯噛みし、目を数度まばたいた。


「葉牙助!」


 葉牙助は一度影虎の顔を見上げた。薄青い紫陽花のような影が、白い顔におとずれている。眉を寄せ、彼を心配そうに見下ろす金色のひとみは、薄暗闇の中で輝きを放ちながらも震えていた。

 勇ましくたくましい彼女のひとみを見ていると、己の不甲斐なさに、胸が苦しくなる。

 葉牙助は枯れ葉色のひとみを震わせると、まぶたをきつく閉じてうつむいた。


「……逃げてばっかなんだ。俺」


 声は振り絞るようだった。


「は……」


 影虎は短く息を吐いた。

 葉牙助は目を上向けると、作ったような笑みを彼女へ向けた。その笑みには少しばかりの悲しみが感じられた。

 影虎は眉を寄せる。細く黒いそれは、不安げに少し震えていた。


「俺と十護郎兄さんは昔、父ちゃんと母ちゃんと日野で暮らしてた。貧乏農民だったけど、家族みんな仲良くて幸せだった。父ちゃんが通りすがりの武士に斬られてから、母ちゃんがおかしくなった。俺と兄さんを、江戸のある屋敷に売った」


「お前……」


 顔を固める影虎を意に止めず、葉牙助はただ淡々と語ってゆく。それは起こった事実を、冬の朝に、降っていた雪を家の窓から静かに見つめるような口調だった。


「母ちゃんに売られたって知ったときはすげえ傷ついたけど、初めは日野と比べもんにならないくらい広い屋敷で、日野で見たことがねえくらい美味いものも食えるし、兄さんは好きな本がたくさん読めて楽しくていい暮らしさせてもらえてると思ってたんだ。でもある雨の日の夜、兄さんは眠っていた俺を無理やり抱えて、俺だけ別の貧しい長屋の家に預けた。朝起きた時には兄さんはいなくて。帰り道も、がきの俺にはわからない。長屋の母ちゃんたちは優しかったし、義理の弟妹も可愛かったけど、俺は兄さんに捨てられたと思った。兄さんは自分だけいい暮らしがしたいから俺を捨てたんだって。兄さんを酷く恨んで過ごした」


 影虎はくちびるを引き結び、黙って聞いていた。桜色のくちびるから、かすかに出た八重歯の先が、鍾乳洞の光を映し、青白く色づいている。


「でも違ったんだ。あの屋敷は、女みたいに綺麗な兄さんを夜なよな女装させて、客を呼んで……陰間みたいに扱ってたんだ……。馬鹿な俺はそれを知らなかった。俺がこのまま成長したら、自分と同じ目に合うと思った。兄さんは俺をまもるために……。その後数年経って、屋敷の奴らが病死して、兄さんとふたりでまた暮らせるようになったけど、俺は——」


「もういい」


 葉牙助は岩壁から身を起こした。見えない何かにせまられるように。


「俺はあの時兄さんを護れなかった! 安全な場所に、ひとりで逃げたんだ! さっきだってそうだ。お前が戦ってるのに逃げた……!」


 気付けば葉牙助は泣いていた。透明なまるい涙は、頬をつたって鍾乳洞色に染められてゆく。

 影虎は、真顔で静かに彼を見つめたまま、ふっと息を吐いて表情を崩した。


「……俺は、お前の兄さんの過去にもお前の過去にも一切興味はない。だがな、これだけは言える。お前はまだ人生いくらでもやり直せる。……俺みたいに人も殺してないしな」


 最後の言葉を言う時、影虎はわずかに俯いた。ここにはいない、どこか遠くの人間へと吐き捨てるようだった。


「影虎……」


「だから、この森を早く抜けて、また兄さんと幸せに暮らせ」


 顔を上げた葉牙助に、影虎の晴れた笑顔があった。

 今まで出会ってから見たことのなかった、彼女の笑顔だった。夜闇に浮かび、おごそかにひかる純白の月を体現したような、彼女の凛とした雰囲気に、葉牙助はしばし呆然としていた。笑うと猫目の端に厚く盛られている黒いまつげの長さが一層際立っていた。

 葉牙助は鍾乳洞の中に、突如さした灯りを見つけたような顔で、くちをと目を軽く開けていた。そして、心が凪いでくると、徐々にくちもとににんまりとした満足そうな笑みを刻んだ。


「さっき初めて俺のこと名前で呼んでくれたね。お前は強くて、綺麗で、かっこいい。俺も、お前みたいになりたい……」


 影虎は無垢な葉牙助の笑顔を見て、しばし茫然としていたが、やがて顔をそらした。


「何馬鹿なこと言ってやがる」


 彼女が照れているのだということが、本能的に感じ取られた。

 葉牙助はさらに笑みを深くする。太陽のような満面のものが、彼のちいさな顔に咲いた。

 それを引き裂くように、鍾乳洞の入り口からひややかな嘲笑がこだまして響く。

 無意識に顔を近づけていた葉牙助と影虎は、その声にはっと同時に振り向いた。


「こんなところに隠れても無駄だ」


 いつの間にかしっとりと暮れていた夜の月光を背負うように、体の輪郭を青く光らせた龍生が、肩幅まで足を広げて堂々と立っていた。

 ふたりが目を瞠ったのは、彼のいでたちが先ほどと変わっていたからだ。

 白い着物を着ているところはひとしい。

 今、その姿は、純白の水干に足首まで輪郭を丸く描いたような、浅葱色の袴を履いていた。足は、白い足袋だけで、甲が月のひかりを受けて、冴えたような白い輪郭を浮かべている。先程まで履いていた丈の高かった高価そうな下駄は、脱ぎ捨てたようだった。

 ほつれて乱れた日本髪は、しっかりと結い直され、白い紙紐でつむじの高さでひとつにされていた。長いそれは絹のように揺蕩って、彼の腰の高さまで背ではらりと流れている。白い顔の左右に、額の中央で分けた長い前髪が揺れていた。

 瞳の筋肉を震わせて、龍生を見つめる葉牙助の隣で、影虎は静かに刀の鯉口を切った。

 葉牙助がそれに気付く前に、影虎は、彼の前に立ち、背に庇う体勢になる。


「安心しろ。お前のことは必ず俺が護る」


「え……」


 葉牙助が何か言う前に、影虎は駆け出した。湿った鍾乳洞の地が、呼応して水音を立てる。

 龍生も首を後ろに逸らし、月を仰いで凄絶な笑みを浮かべると勢いよく顔を前に戻し、腰に垂直にさした刀の鯉口を、後ろ手を回して切り、飛ぶように駆け出した。

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