第一章 六話 辻村龍生 

 一瞬にして森の空気が変わった。

 先ほどまで新緑や深緑に見えていたうつくしい景色は、葉牙助の目には灰色にうつっていた。 

 彼を挟んで、白い侍と黒い侍が睨み合っている。

 一方は妖艶な微笑を浮かべて。

 一方は天敵の龍と対峙した虎が威嚇しているように。


「その餓鬼から離れろ」


 影虎は告げた。静かだが、怒りの伴った声だった。

 葉牙助は影虎を見上げて、無意識に前方にたたずむ白い着物の女をゆびさす。


「影虎……!こいつだったんだ! 辻斬りは! まさか女だったなんて……!」


 影虎は葉牙助の方は見ず、白い着物の女を睨んだまま、さらに眼光を鋭くさせ、皮肉な笑みを浮かべた。そして鼻で笑って、顎を女にこくりと向けた。


「馬鹿かお前。こいつ男だぞ」


「えっ……!?」


 葉牙助は影虎から目を離して前方の女を見やった。細くしなやかな体に纏われた着物の幽玄なうつくしさと、そのなまめかしい白い肌、線の細い艶のある黒髪。

 どうしても女にしか見えない。

 彼が混乱している最中、目の前の女はうつむくと、袖をまとって隠された手元を、己のくちもとにあて、優美に微笑んだ。

 身を震わせるような、鈴の音のようなからからとした笑い声が響く。


「くく……。斬る者斬る者、影虎、影虎と宣うかと思ったらそなたのことだったのか」


 端に向かうにつれてより長く濃くなる睫毛を上向け、楽しげなその声は、低く葉牙助の耳に響いた。

 透き通っているように感じるが、それは確かに男の声だった。


「男……」


 葉牙助は瞠目したまま瞳を揺らした。

 彼の記憶は、奥深い井戸の底に突き落とされたように、一瞬闇に覆われていく。


 葉牙助の体は今よりもよりちいさく、幼くなっていた。

 うずくまって丸めていた体をほどき、顔を上げ、溜めていた涙が、一粒、二粒とやわらかな頬の上を伝ってゆく。

 うすぼんやりと、遠くの方から自分を見つめている今の自分の視点を感じていた。

 これは七歳の時の記憶だと思い出す。体がどこか重く、水底に沈められたように息苦しいが、胸を無理に動かして、かろうじて息ができていた。

 あたりは寒さも暑さも感じない温度だった。


「……兄さん……。十護郎兄さん。どこ行ったの……。俺を置いて。俺はここだよ。置いていかないで! 母ちゃんも、兄さんも、みんな俺を捨てていく。俺なんかいらないんだ……。いら

ない子なんだ。生まれてこないほうがよかった!」


 葉牙助の地についていた両手の甲に、涙が薄水色の影をまとって、ぽつぽつと落ちてゆく。温度は感じないが、土の感触がてのひらにする。それは黒く少し尖っており、直接的に傷を負わせるものではなかったが、彼に確かな痛みを与えた。

 彼のまなざしの先には、薄紫の着物を纏った女がいた。白い着物の女とひとしく、線の細い髪を灯篭鬢に結い上げている。髪と髪のたわんだ間に、ふちがほんのりと薄紅色をした、鼈甲の簪が幾つか飾られて、前髪には藤の花をかたどったつまみ細工の簪がひとつ、置くようにさされていた。白い富士額が月の輪郭のように照らされていた。

 そのおもざしは、どこか葉牙助に似ている。

 兄の十護郎だった。彼も、葉牙助同様、現在よりも、より若くなっている。十代の頃の彼だった。 

 十護郎の足元は、赤い下駄の下から月がさしているように逆光となっていた。


「葉牙助……」


  自分を呼ぶ兄の声に、葉牙助は顔を上げた。

 目の端にうっすらと溜まっていた涙の粒が、弾かれて宵闇の中を飛ぶ。


「兄さん……」


 葉牙助と目が合うと、十護郎は切ない微笑みを浮かべた。弟とひとしい枯れ葉色のひとみに、上品な光沢がうすい闇色をまとっていた。紅を差されたくちびるが、艶やかにも、切なくも咲きたての椿のように存在感を放っている。

 兄弟がうすい光をまとって見つめ合う中、横から汚い男の声が聞こえてきた。


「十護郎——いや芙蓉。今日の客は一人三両だ。気張って働けよ」


 葉牙助は冷や汗をかき、徐々に瞠目していった。彼の顔に、桜を濁したような色の闇のとばりがはらりと落ちる。

 十護郎は声のした方を振り向き、葉牙助を一瞥すると笑みを浮かべ、彼に背を向けて光のさす方へと、去ってゆく。光に顔を向けた表情は、何かを悟ったようにも、諦めたようにも見えた。

 葉牙助は立ち上がった。


「兄さん……兄さん行っちゃだめだ!」


 小さな手を伸ばすが、兄の優美な体の輪郭は、白に包まれ、くっきりとした白いひかりの輪郭を描いて消えていった。

 葉牙助の視界は、まばゆいひかりに覆われる。それは闇を払うものであったにも関わらず、この闇の調和を乱すような、不安定なものに感じられた。


 ざざざと頭の中で、蝿がうねって飛ぶような鈍い音が響く。不協和音に目覚めさせられ、葉牙助は過去と幻想が入り混じった世界から目を覚ました。

 目の前に広がるのは、空の変化によって少し黒く染められた森の木々が、そこにいる自分たち三人を囲っている景色であった。

 葉牙助は前方にいる白い着物を着た女装をした男と、背後の影虎の殺気を確認すると、うつむき、歯噛みした。異様に体が重く、額からいやにつめたい汗の粒が溢れだす。それはとどめようもなく、彼の見開かれたまぶたの二重の間にも溜まって、まつげを透明に汚していった。呼吸も走り疲れた子犬のように、乱れていた。肌に温度を感じる。つめたく鈍く刺すようだった。

 女装男と影虎は、葉牙助の乱れた様子に気づかず、互いを宿敵のように睨んでいた。

 抜き身の白い刀の刃を、地に伏せてうずくまる葉牙助にすっと向けて、女装男はあでやかな笑みを浮かべた。

 血で塗ったのか、紅で塗ったのかわからない、白い顔の中で目立っているうすいくちびるが、半月の形を描く。

 刀を手にしていない方のゆびさきで、白い着物の袖をそっと握ると、赤い月のようなくちもとへゆったりと運び、くすりと笑んだ。その笑みは、愛らしくもあるが、見たものへの恐怖をじわりと増すものであった。


「ヤマトタケルが敵を欺くために女の格好をしたと知って試しに女装をしてみたが」


 女装男は刀を持ち上げ、頭上に掲げた。すでに落ちかけている真昼の白い月のあかりが反射し、冴えた静かな光を放っている。

 男はその光のしろい照り返しを見て、にやりと口角を上げた。

 葉牙助は、俯いたまま、ゆっくりと女装男から離れていった。


「おかげでこの『月白切冬景』にたっぷりと血を与えてやれたわ」


 女装男は首を傾けて刀を見やると、ゆったりと満足そうに笑った。

 葉牙助の背後で静かな殺気を放っていた影虎は、長い八重歯をくちびるから出し、ゆっくりと歯噛みした。


「てめえ……」


 怒った虎が唸るような、低く鋭い声音だった。彼女の白い顔を覆う長い前髪はかすかに逆立ち、黒い湯気のようにつやを持ってゆらめいていた。二重のまぶたの上に、凛としたさやかなひかりが宿り、肌の光沢をみせている。

 女装男は、瞳だけを動かし、影虎を静かに見遣みやった。


「私は辻村龍生。この吸血刀『月白切冬景』の所有者である」


 彼の白を描く着物と同じ、静かで凛とした雰囲気の男の声が、堂々と告げた。


「吸血刀……」


 影虎は大きな金色のひとみをゆっくりと見開いた。驚きとかすかな絶望が、そのひかりを凝縮したようなまなこに、うっすらと塗られた。

 影虎が呼吸を吸い込む前に、龍生が口を開いた。


「見ればやはりその漆黒の刀……。もうひとつの吸血刀『月白切冬景』と見た」


「……だからどうした。なるほどねえ……。てめえは自分の刀を強くするために人を斬ってたってことか……」


 影虎は皮肉に笑うと、腰に差していた漆黒の刀を鞘から抜き、片手で刃を龍生の方へ突きつけた。切先きっさきが鈍い青にきらめく。


「てめえだけは俺がこの手で殺してやる」


 怒りも感じない淡々とした声音だった。それが逆に凄絶さをあらわしていた。


「おい、餓鬼。下がってろ」


 影虎は葉牙助の方を見ずに、刀の鯉口を軽く振って彼に合図を送る。だが、彼女の前にいるはずの葉牙助から、何の気配も感じられなかった。

 影虎は龍生への殺気と闘志が相まって苛立ちを覚え、額にうすい青筋を浮かべると、足を一度踏んで鳴らした。


「おい、聞いてんのか!!」


 影虎が眉を寄せ、眼光を鋭くして葉牙助のいるほうを見遣ると、蹲って吐きそうになって震えている彼のちいさな体があった。

 荒く息をつき、開けっぱなしになった口からはよだれが幾重もねばりを持って垂れている。


「葉牙助!?」


「兄さん……。兄さん……!」


 地に顔を伏せて、見開いた大きな瞳からは大粒の透明な涙が溢れており、震えるくちびるからは、何か懇願するような苦しげな声が等間隔に響いていた。

 彼の状態を見やって、影虎は驚いてまばたきをした。


(過呼吸!? こいつ、うるせえのだけが取り柄だったのに急にどうしたってんだ!)


「おい、どうしたしっかりしろ!」


「後ろががら空きだぞ」


 冷えた刃物のような声に、影虎ははっと顔を上げた。

 目の前に、白い顔が迫っていた。龍生だった。不適な笑みを浮かべ、灰青色のひとみには、凄絶な色をともしている。 


「ちぃっ……!」


 影虎は龍生と視線をかち合わせたまま歯を食いしばった。

 月白の真白い刃と陽黒の漆黒の刃が、氷がぶつかるような高い音を立てて重なり合う。

 鍔迫り合いになり、影虎は刀の鞘を両手で強く握ると、押し合うように肩甲骨を寄せ、刃に顔を近付けた。

 龍生も両手で鞘を握り、顔を近付ける。

 彼らはくちづけそうなほどの距離でいたが、互いに互いを「殺す」という揺らぎが薄く降りてきた闇の中で、はっきりと濃く匂いたっていた。

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