第一章 五話 白い着物の女
真昼の月が、東へと落ちて行こうとする。薄紫と薄紅が入り混じってそれにかかり、夢のような空の景色が広がっていた。
影虎を先頭に、葉牙助が後ろについて、その空の色をうっすらと纏った森の中を歩いていた。
影虎の後頭部の輪郭に、空の色がほのかに滲んでいた。
葉牙助は冷や汗をかきながら、影虎を心配そうに見上げている。
影虎は目を閉じて何食わぬ顔で歩き続けていた。
葉牙助はその黒い背をじっと見つめていたが、やがてくちびるを噛み、うつむいた。
(もうすぐ江戸へ着く。影虎との旅も終わりか)
眉を寄せ、顔を上げてもう一度影虎を見やった。
(なんか、寂しくなってきたな……。こいつ、俺と別れたら、まあたひとりで刀に血を吸わせ続ける旅をするんだよな)
くちびるを前歯でかるく噛む。
(結構性格も難しいやつだし、心配だよな。つめたいのかと思ったら実は不器用なだけで優しいやつだったし……。いやいや、俺の目的は、兄さんに薬の売り上げを届けること!)
まぶたをぎゅっと閉じて、犬のようにぶんぶんと顔を振ると、眉を寄せて強い表情になった。
(余計なこと考えてちゃだめだ。それが薬売りの俺の仕事なんだから!)
薬箱を背負ったまま、両手で紐を握って背中で一度、とん、と打つ。
大きな薬箱は、彼が前屈みになったことで細い肩から抜けて落ちそうになる。
「いけねっ」
葉牙助は肩紐を両手で握り、起き上がった。そのとき、脳裏にふわりと
鼻の奥がつんと甘く痛むのを感じた。
「兄さん……」
まぶたを閉じ、眉を寄せた。
彼の脳裏に薄ぼんやりとした影が浮かび上がる。
人が行き交う町の通りから離れたしずかな場所。周囲を若い緑の葉を持つ木々で囲まれたそこに、ふるびた民家は建っていた。壁は年月を感じさせる年輪が肌に描かれている薄黄色い木材で造られており、陽光を吸収するように静かであかるい印象を見せていた。
扉が静かに開き、葉牙助の後ろからもうひとり、頭を屈めて背の高い男が現れる。
葉牙助と同じ、わずかに焦げた茶色をした長い髪を背に流し、髪の先を薄紫の紐で緩く結っている。髪につやとこしがあり、外のひかりを浴びると白い筋をはらむ。
切れ長の二重の目の中に、葉牙助と同じ枯れ葉色の瞳が浮かんでいる。一見女性のような印象を与えるが、そのすらりとした背の高さから、男であることがわかる。
葉牙助の兄の、十護郎だった。
「葉牙助、本当にひとりで大丈夫ですか?」
形の良い眉を寄せ、自分の腰の高さほどしかない葉牙助を心配そうに見下ろしていた。
あかるい笑顔で、葉牙助は十護郎の方を見やった。
「兄さん! 心配すんなって! ちょっくら薬売って帰ってくるだけだからさ! 俺にかかれば朝飯前だって!」
「ですが今回は少し回る村が多すぎるように思いますが……」
「ほんと兄さんは心配性っつうか。過保護っつうか」
十護郎は、瞳をすがめ、満面の笑顔を浮かべた。菫の花が咲いたような、たおやかな優しいものだった。
「……帰りの日にあなたの好物をたんと作って待っていますからね」
葉牙助は満面の笑顔になった。
「やったあ、兄さんありがとう! 楽しみにしてるよ」
「私もあなたの帰りを心待ちにしております」
穏やかに互いを見て、笑い合うふたりには、新緑を通した若いみどりや黄色のひかりが、はらはらと散っていた。
薬箱の肩紐を握る手に力を込め、くちびるを噛んで、かすかに俯きながら、葉牙助は影虎の背後を歩いていた。
真昼の月は、周囲に広がる森の葉とふれあいそうになるほど近づいて溶け合い、その輪郭に、夕日の赤がほのかに滲み始めていた。
少し冷たい空気は昨日よりも澄んでいるように感じる。
(兄さんが俺の帰りを待ってる。早く帰って安心させないと)
頭上を覆う
葉牙助の髪の結い目にそっと乗ると、合図のように彼のお腹が「ぐう」と大きな音を立てて鳴った。
葉牙助は、はっと目を見開くと、己の腹を見て手を当てた。
「あっ」
さっと頬が薄紅に染まる。恥ずかしさから、こめかみに汗の粒が湧く。
影虎は背後を振り返り、彼を一瞥すると首をかすかに鳴らし、前を向いて足を止めた。
「……ああ、肉が食いてえな」
「へ」
葉牙助は唖然として影虎の背中を見た。
「肉が食いてえ。ちょっとひと狩り行ってくるから、そこで待ってろ。言っとくがお前の為じゃねえぞ。俺が戻ってくるまで動くなよ」
影虎は吐き捨てるようにそう言うと、葉の重なる茂みの中へと走り去って行った。
「お、おい、ちょっと待てっ! いいって!」
葉牙助は遠ざかっていく彼女の黒い背中に手を伸ばす。
だが彼女は溶けるように自然の暗闇の中へと消えていく。
やがて狼の尾のようにゆらめく黒髪の先も見えなくなると、葉牙助は肩を落とした。
「……行っちまった……。もー!」
うっすらとした夕日色に染まりつつある、森の木々の重なりに、葉牙助は吠えた。が、かえってきたものは孤独と、着物の袖から出ている手の甲が、かすかに肌寒くなる感覚だけだった。
白と黒が入り混じったような小さな岩の上に座り、葉牙助は両足を交互にぷらぷらさせながら、空を見ていた。先ほどまでうつくしい薄青が広がっていた空は、鈍い銀色をはらんだ雲が、筆で押しつけたようにぽつり、ぽつりと置かれていた。
葉牙助は眉を寄せる。
「影虎まだかなあ。肉なんかいらないのに」
頬を膨らませると、かるく怒った顔でうつむく。
「結局辻斬りなんて出なかったじゃん! ただの噂の一人走りだったのかな」
顔をそっと下ろすと、頬を膨らませ、軽く怒った顔になる。枯れ葉色の大きなひとみに、わずかに夜の気配が漂っていた。
横から風が吹く。昼に吹いたものよりもつめたかった。
前髪を片手でかきあげ、ふたたび顔を上げる。
ふっと無意識に、影虎が消えていった方向とは別の方向に目をやった。
ふたたび風が頬にあたる。それは先ほどよりも、なぜか生暖かく、不快に感じる風だった。
葉牙助は眉を少し寄せて、瞳を眇める。枯れ葉色の瞳が刹那、鈍い金色のすじを宿した。
森の奥に、月の暈を纏ったような、うすぼんやりと真白い影が見えていた。
「……あれ?」
葉牙助は、体を前のめりにさせる。岩から落ちそうになり、慌てて手足をばたつかせて体勢をととのえた。
うすぼんやりとしたものに、よくよく見ればはっきりとした白い輪郭がある。それは動きを見せ、こちらをそっと振り返った。
「あそこに、女のひとがいる?」
黒い日本髪をゆるく結い、白い着物を着た女がこちらに背を向けて立っていた。襟と肩の間の白いうなじが、真昼の月色のひかりを帯びて、なめらかな丘を見せていた。
女の薄いくちびるが、血のように赤いのをみとめて、葉牙助は手をついて、吸い寄せられるように勢いよく岩を飛び降りた。
「おーい! お姉さん大丈夫? この辺、辻斬りが出るって噂だから、一人だと危ないよ!」
跳ねる兎のように、ぴょいぴょいと走って近づいてくる葉牙助の存在に気付き、女は少し前のめりになり、ゆらりと動いた。結った日本髪は耳元やうなじにまるい髪のすじが幾重か浮かび、ほつれていた。
なまめかしい白い首筋を葉牙助の方へめぐらせると、くちもとに浮かべていた穏やかそうな微笑みは、急に降ってきた雨のしずくのように、不適な笑みへと変わった。
その笑みは、葉牙助の体の動きを止めた。
葉牙助は、体全身の骨が一瞬、氷のようにつめたく固まるのを感じた。
女の白い着物に、彼岸花の赤がちらちらと咲いている。
——いや、それは花弁ではなく、血であった。
女の白い頬にも、血がべっとりと化粧のごとく塗られている。頬からこめかみに咲くそれは、赤いくちびるへとつながっていた。
葉牙助は、無意識に心臓のあたりに片手を伸ばした。衣ごとぎゅっと掴む。手の甲には、脂汗が細やかに浮いていた。どくどくと、己の心臓が新たな血を産む音が耳なりのように響いていた。
女は、手に刀を持っていた。鞘も柄も純白のそれは、女の手首からつたう血を受けても、凛としたうつくしさを保っていた。
兄といつの日か目にした、新雪と同じ、清らかな鈍いきらめきを放っている。
葉牙助は徐々に目を見開き、たらりとこめかみから汗を顎につたわせた。その汗は今目にしている雪色の刀のように、しんとつめたいものだった。
硬直する葉牙助に向けて、女は静かに刀を抜いて刃を突きつけた。
「はっ……」
葉牙助は何か言葉を紡ごうとして、息を止めた。
こめかみを汗が流れる。今度は大粒の。火のように熱い汗が。
脳裏を、出茶屋で影虎と出会ってから、今に至るまでの出来事が、走馬灯のように巡っていく。
(こいつだ……辻斬りの犯人は……!)
葉牙助の右耳に、どさっと何かが落ちる音がした。
緊張で、視線だけをゆっくりと向ける。
野兎の死体が、横たわっていた。まだ殺されたばかりであろう、やわらかなその体は、耳だけが不自然にまとまって流れている。
葉牙助は青褪めた顔で、さっと背後を見やった。
「影虎……!」
黒い装束を着た者が、立っているのを気配で感じ取った。
影虎が来てくれた安堵で、さきほどまで強張っていた体の緊張は解かれた。だが、葉牙助は、彼女の顔を見て体をふたたび硬直させた。
影虎は目を釣り上げ、白い額に青筋を立てて、眉を寄せて顔を赤くし、怒りを露わにさせていた。
彼女の金色のひとみが睨む先には、血を浴びて笑む白い着物の女がいる。
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