泥下に沈む夏

青柴織部

おしまい。

 その光景は、わたしの勤めるオフィスからもよく見えました。――職員の休暇の多い日だったので、ごく小さな困惑のさざ波だけで済みました。もしも大勢いたならパニック状態だったでしょう。

 わたしが呆然と外を見ていると、上司は「最悪だ」とだけ呟きました。


 振り向いた上司の顔は真っ青でした。今までどんなお叱りを上から受けても飄々としている人だったので、その様子を見てわたしはようやく「異常なのだ」と思いました。

 上司は周りを自分に注目させるために片手を上げます。


「あれは俺の幻覚か?」


 問いかけに否、とみんなは答えました。上司は苦笑いします。


「集団幻覚か」


 集団幻覚ならなんと面白かったことでしょう。ええ。本当に。皮肉も無しに。

 遠くに見えるオリンピック会場の位置に、コールタール状の黒々とした液体が噴き上げています。

 噴水のように勢いよく。なにか形を作ろうとしては崩れていきます。むかし弟と遊んだスライムを見ているようでした。


 吹き上げるたびに、形を崩すたびに、周りの建物を液体が覆っていきます。

 わたしは恐ろしさに耐えきれなくなりその場に尻餅をつきました。

 あれは――あそこにいる人たちは、無事なのか。そもそも触れたらどうなるのか。ここからではなにも、分かりません。


 ブゥン、という空調機の音だけがオフィスを満たしています。

 熱いのか寒いのは、もはや分かりません。冷汗ばかり出ます。


「下手な怪獣映画みたいだ」


 先輩が無理やり笑いながら言います。


「どうします、佐藤課長? B級映画ならおれたちも飲み込まれるパターンですよ」

「家族があそこにいるんだ…」


上司は呻きました。


「B級映画のように」


 先輩は黙りました。同僚が啜り泣きます。

 やはり、知り合いがオリンピック会場に行っているのです。

 …いえ、このオフィスの、休暇を取ったもので何人が会場に――? そこまで考えて、ゾッとしました。理由は分かりません。

 ただ…おそらく、遠い出来事が一気に現実感を伴い始めたからでしょうか。


「今から携帯の使用を許可する! 安否確認だ! それに情報も!」

「いや、そんなんより逃げましょうって。他人よりこっちの安全スよ」


 わたし直属の後輩が真面目な顔をして指摘しました。上司が怒鳴る前に、私たちが目を離した窓を指差しました。


「アレ、こっち来てますもん」


 見れば泥のようなスライムのようなコールタール状の何かは外側に向かって形を作り、崩壊しながら広がっていきます。

 この距離から見ても目に見えて動きがあるということは、相当早いのでしょう。


「交通機関はもう間もなく麻痺をする。しかもあれは走って逃げられるか分からないっス。ね、井崎先輩。B級映画でのお約束、でしょう?」


 先輩はぽかんとしています。


「なんだ、おまえも見るんだな、映画。知らなかった」

「失礼っスね。サメ映画愛好家なんですよオレ」


 あまりにも、場違いな言葉です。それでも、そのやりとりで皆正気に戻りました。


「逃げるぞ!」


 上司が叫びました。いっせいに周りが動きます。

 出遅れたわたしがオロオロしていると、後輩がわたしの手を掴みました。


「バイクの後ろ、乗ったことあります?」

「…ある!」


 むかし、友達に乗せてもらったことがあります。そう難しくはありませんでした。


「じゃあ乗せてやります。緊急事態だし、ノーヘルでも許されますよね!」

「パニック映画の定番だな。生き残れよ、若いお二人!」

「先輩こそ!」


 わたしたちはバタバタと駐車場まで慌ただしく駆けます。後輩は自分のヘルメットをわたしにかぶせました。ふと、かすかに甘ったるい匂いがすることに気づきました。

 そのことを後輩に言う前に、バイクは急発進します。

 もうきっとこのオフィスに戻ることはないだろうな、という漠然とした確信を胸に、バイクのモーター音を感じ取っていました。




 わたしと後輩は、ガソリンが続く限り走り続けました。彼はとても運転が上手で、また裏道もよく知っていました。

 追い抜かしていく人々の、嘆きも、悲鳴も、なにもかもを後ろに残してどこまでもどこまでも走っていきます。


「…この辺までくれば、いいっすかね…」


 疲れた様子で後輩はバイクから降りました。わたしにも手を貸してくれます。

 あたりに人は少なく、わたしたちのように逃げてきた、という人は少なそうでした。

 先輩や、上司はどうなったのでしょうか――。

 わたしが沈鬱な表情をしているのを見て取ったのでしょう、後輩がわざとらしく肩をすくめました。


「あんな殺しても死ななそうな人たちの心配、するだけ無駄っすよ。どうせ明後日には『会社にこーい!』なんてラインが来ますって」

「そうだと…いいけど」


 そういえば家族は無事でしょうか。いえ…東京に住んでいないので、きっと大丈夫なのかもしれませんが。

 それでもあの黒い液体のことは現状何も分かりません。もしかしたら想像した以上に広がっていくかもしれないし、生き物のように動くかもしれないし、分裂して大きくなるかもしれない…。

 そんな恐ろしい考えばかりがわたしの脳裏をよぎります。

 後輩はそんなわたしの手を掴みました。


「大丈夫ですって! だって俺ら、ここまで逃げてこられたんですよ? だったらまだ逃げられます!」

「う、うん…」

「それより今日の宿を考えるべきですよ。この川向うに泊まるところあるといいんですけど――それ以前に、まだやってるのかな」


 後輩はそばの橋へずんずん歩いていきます。わたしは慌てて引っ張られるがまま、その背中を追いました。


「バイクはどうするの?」

「あー、もったいないすけど、あのまま放置です。運がよかったら取りに来ます」

「そっか」


 橋のちょうど真ん中に差し掛かった時、甘ったるいにおいがすることに気づきました。

 なんの匂いでしょう。そういえば、逃げる時も同じようなにおいがしたような気がします。


「ねえ、なにか匂いがしない?」

「匂い? 俺の香水じゃなくてですか?」

「うん、違う匂い…」


 後輩の背中にしがみついている時、さわやかな香りがしました。はじめて彼が香水をしていることに気が付きましたが――今は良いとして。


「甘い匂いがするの。チョコレートにしてはちょっと違うし、カラメルに近い感じかな…」

「んー? あ、確かに」


 あたりを見回しますがこれと言ってお菓子工場だとか、パン屋さんは見当たりません。住宅が並ぶ街です。

 ふと、橋の下で水が跳ねる音がしました。いくつも聞こえます。

 大きな魚でもいるのかと不思議に思い、橋の欄干から見下ろしました。


「…え?」


 透明、あるいは少し濁っている水を想像していたのに、眼下に映るのはコールタールでも流し込んだかのような、黒々とした液体です。

 私はこの時悟りました。

 この液体は、川にも流れ込んでいるのだということを。

 そして今まさに、その周囲にいる人間を飲み込もうとしていることを。

 わたしたちは、逃げられないということも。


 横で同じものを見て、同じような考えを出したのでしょう。

 あきらめ、吹っ切れたような笑顔で後輩はわたしを見ます。


「俺の運転テク、すごかったでしょう」

「…うん。また乗せてね」

「いいっすよ。というか先輩も大型二輪取りましょうよ。それで、ツーリングとかしたいっす」

「いいかもね…。北海道のパッチワークの丘とか行ってみたかったんだ」


 甘ったるい匂いが、もうすぐそこまで来ています。

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