第4話
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光化学スモッグ警報が出て、一日園児たちを部屋の中で過ごさせた、八月も終わりかけのある日、日没のあとには秋の雰囲気を知らせる虫が茂みで蝉に対するささやかな抗いとして鳴き出していた。
着実にお腹は膨らんでいた。私は多くのことを保留にしていた。片町にこのことを告げ、彼の意に沿って子供を産み落とさねばならないという思いと、さとるのもたらす水槽に幻燈が映し出す過去の栄光に踏みとどまるために、子供は堕ろすべきだという思いとが、引き裂かれたまま私の子宮に共存し、それに決断を下せずにいた。今や私は、中絶が可能な期間が刻々と減りつつあるのに蓋をして、つわりの辛苦をさとるを見ることで和らげていた。目をやるたびにさとるは冷たい刃物を挿し込む風にして、私に痛みを与えた。さとると水槽の間の沈黙は罪人の前に閉ざされた鋼鉄の門のごとく、その厳格さをもって立ちはだかっており、私はそれを確認することで身体の痛みに「とりあえず赦されないこと」という烙印を押し、砂上の楼閣、ありもしない海原の果てに、無理やり答えをつくりだした。その答えが存続するためには私はさとるを見るしかなかった。
私が日誌をつけながら、ぼんやりと窓の外の月を探して、今夜の夕食をどうやり過ごそうかと思案していると、村上さんと波多野さんと辻原さんが、話に盛り上がっているのが耳に入ってきた。顔を上げると、向こうもにこにこと話題の架け橋をこちらに投げかけてきた。
「直居さんは覚えてるでしょう」辻原さんが言った。
「いや、こういうのに若いとかは関係ないですからねえ」波多野さんが相槌を打つ。
「何がですか?」私が訊くと、
「子供の頃のことよ。私なんて三十年前のことなのに、昨日みたいに思えるのにね」回想に耽りながら村上さんが答えた。
「ほら、これ」波多野さんが写真を寄越してきたので見ると、そこには黄色い帽子をかぶった子供たちが三列になって石の階段に並んでいた。「卒園した子のお母さんが持ってきてくれたの。三年生になりましたってね。三年生っていったら、十歳にもなってないじゃない。私なんて自分がこの頃どうだったかなんて忘れて分かんないのよ。でも村上さんも辻原さんもくっきり覚えてるみたいで、こういうのって年を経るとむしろ蘇ってくるものなのかしら」
波多野さんの言葉に村上さんと辻原さんは口々に「そんなことないわよ」「誰だって覚えているものよ」と文句を言った。
「遠い昔って感じですよね。十数年前でもまるで自分じゃないみたい」
小学校にいた時のことは少しも覚えていない、ということはないにせよ、普段は記憶の棚の手の届かない場所にしまってある。それを眼前に思い出そうとしても、あちこちにくすみが生じていて全体をはっきり俯瞰することなんてできそうもなかった。まじまじと写真に見入りながら、呟くと波多野さんは肩を叩いてきた。
「そうよね、やっぱり!」
「でも、なんとなくは頭にありますよ」
写真の子供たちは園児に比べて、いくらか冷静を気取った顔つきをしていた。丁度、周囲と自らのズレを痛感し、他人との関係に悩み始める時期だろう。並ぶ面々は初めて見るものだったが、どこか私の今まで出会った人々の、あるいは擦れ違った人々の雰囲気を感じさせるむきがあった。誰かは誰かに似ているものだ。それはグループ内の立ち位置にもよるし、そもそもの性格にだって無限のパターンがあるわけではない。けれど写真を見ていると、布に水滴が染み入る風に、記憶のぼやけた空間に、キリリと冷たい川のたまりに素足を突っ込んだ時のように、澄んだヴィジョンが滲み出ようとしているのが分かった。教室の机の木の匂い、窓際から射し込む陽光を吸収する掃除用の雑巾の群れ、床にゆるやかに落ちるチョークの粉、ざらざらしたクラスメイトたちの会話、いつも机に張りついた男の子の俯いた表情、彼を見ていた心の静けさ――。
「どうかした?」
無言になって写真を離そうとしないのを不審がった波多野さんの声に、我に返った私は「いえ、なんでも」と顔を上げて、写真を差し出した。しかし頭の中には、既にあるイメージが隈なく拡散し、プールに貯められた水がそうであるようにして満ち満ちていた。そんなことを察することない波多野さんはふと気付いた風に問いを発した。
「あれ。直居さん、最近太った?」
*
このところ世間では電話を使った詐欺が横行しているとテレビで騒がれていたが、そんなことには気にもとめず、十数年来に連絡してきた私に、当時の大親友であった鏑木美琴は、求められたクラスメイトの個人情報を放り出すようにして開示した。
「ああ、あのずっと一人でいた男の子? 江崎くんじゃないかな、多分。富野くんなら、噂好きだったし、色んな人の裏事情とか集めてたから、知ってると思うよ。富野くんの電話番号は××××。あ、直居も今度コンパとか行く? こないだめっちゃかっこいい面子の揃う飲み会があってさ、次も期待できるんだけど……」
私は一言、「いいです」と言って受話器を置き、間髪入れずに早速教えてもらった富野とかいう男の連絡先にダイヤルを押した。次に受話器越しへ出た男の声は、いかにも他人の弱みを集積して、眺めるのが好きそうなネバネバした口調をしていた。私にはその顔の一部ですら、髪型や顎のラインすらも思い出せなかったのだが。
「なに? 豊崎ってあの野球部の? それなら、北海道にいるよ。先月昇進したらしいね。どうも参っちゃうよな、こっちは永久平社員だってのに。え、違う? なに。江崎? 江崎ってあのだんまり屋の江崎か。ううん、電話番号は知らないな、っていうか、電話とか持ってるのかな。いやいや、場所は知ってるんだ。一人で住んでるはずだよ、前聞いた話ではそうだった。そうじゃない、本人とは会ってないんだけどな。まあ、聞いた話だ。ええと、でっかいホームセンターがあるだろ。綾瀬川の近くだ。そう、最近できたところだ。そのホームセンターの裏路地のところに住んでると思う。変わり者だよ、あいつは。谷中っていう家に間借りしているらしい、訪ねてみる? 正気か? そういや、直居さんって昔からそういう気があったような……」
私はうんざりして適当に相槌を打つと、返事も聞かずに受話器を置いてしまった。貴重な情報は得たのだから、それに一刻も早く目を通したかった。江崎くん、江崎薫くん。その子は端正な顔立ちをしていたが、全く社交的ではなかった。絶えず口を噤み、休み時間には自分の席から梃子でも離れようとしなかった。大抵は小説や教科書の紙面に目を落とし、気まぐれに机の隅に退屈そうに目をやった。私はその表情の機微を知っていた。誰も目を向けないような彼に、私は夢中だったのだ。彼の仕草を私はずっと見ていたかった。彼を人知れず眺める時間が永久に終わらなければいいのにと思っていた。脳の俎上に上がってきた江崎くんは、さとるの面影とピッタリ重なって見える。小学校を卒業してから江崎くんのことを私は徐々に日常の陰に追いやり、忘れていったのだろう。とはいえ、今はその存在こそが、私のことを水槽と妊娠の合わせ鏡、埋め込まれた硬質な軛から解放してくれるような気がして仕方がなかった。あの無愛想な江崎くんを前にすれば、私はかつての私をしっかりとそこに見て取って、おそらく自信が湧いてくるだろう。私は後押しして欲しかったのかもしれない、堕胎を決意することに。その航路こそ君の望んでいたものだ、と正しさを裏づけてくれるものを求めていたのかもしれない。彼に会ったら、どうするか決めよう、そう思った。さながら嵐の中の灯台の役目を江崎くんは勝手な都合で背負わされていた。十数年前のさとるくんの姿を見に、私は吐き気止めの錠剤を飲むと、昼下がりの土曜日の街へ身重の身を押し出した。
綾瀬川の近くで、大きなホームセンターが二年前に建てられた区域は、いわゆる郊外にあった。私は最寄りの駅から電車に乗って、一時間ほど過ぎゆく窓の外の景色に目をやりながら身体を揺らし、それから一度乗り換えた。都心へと繋がる先程の車輌と比べ、随分と座席の空いた車内で、三十分ほどすると巨大なホームセンターの一角が視界に入ってきた。改札を出て、案内板のある通り、駅前の通りを下るとそこにはすぐに生活排水の流れるどす黒い綾瀬川が通っている。それに沿ってホームセンターの裏側を目指した。車の通りは激しいが、舗装された歩道は閑散としていて、家々もそんなに密集しているわけではなく、ところどころに田畑やビニールハウスが散見された。この一帯は地域開発の着手がまだされておらず、団地すらほとんど建設されていない。ただ昔から住んでいる人々が細々と暮らし、都心での仕事を終え、疲れた身体を休める場所といった風情が漂っていた。一軒家が多く、生活のための必需品とされているのだろう、自家用車がどの家の軒先にも姿を見せている。ホームセンターの裏側は、表通りよりも土の匂いが強かった。私は、誰もいないトマトの温室や、雑草の手入れのいき届いてない小さな公園なんかを横目に、「谷中」という表札を探した。時代から取り残されている、そんな感じがした。こんなところに本当に江崎くんはいるのだろうか、と心がざわめき始めていた。
しかし、あった。「谷中」と彫られた表札は裏路地の一画の内でも貧しそうな家屋の数件立ち並んだところにあった。元々三角だった屋根は奇妙な風に真ん中で凹み、外壁の漆喰は虫食いみたいにいたるところが剥がれかけている。軒先には栄養失調といった風貌の枯れたサルスベリがひょろっと一本立っていて、その根元にはいくつかの花弁と葉が片づけられないまま、変色して土の上で萎びていた。私は些か怯えながら、表札の下にある呼び鈴のボタンを押した。玄関の扉が薄いのか、中でチャイムがこだまするのが聞こえてくる。ドキドキしながら待っていると、じきに内側で何者かが動く音がして、ドアが軋みながら押し開かれた。
そこから顔を突き出したのは、腰を折り曲げ、ぼさぼさの白髪を垂らした老婆だった。私は慌てて扉の前まで行って頭を下げた。老婆は無言のままで訝しげに私を睨んでいた。
「あっ。あの、江崎くんがこちらにいらっしゃると聞いて来たのですが」
訪問者の顔を凝視していた老婆は、じっと私の方を窺った姿勢で動かなかった。変な緊張が流れた。私は一段声を張り上げた。
「あの! 江崎くんを――」
今度は分かったようで、老婆は大きく頷くと、玄関の扉を開いて私を招き入れると、入ってすぐにある階段の方を顎でしゃくった。そうすると、私が「ど、どうも」と会釈を返すのも構わず、すたすたと居間の方へ引っ込んでしまった。木製の階段は埃っぽく、天井も低かったので屈みながら上るのに苦労した。濁った空気に口へ手の甲を当てて、二階に上がると、部屋は一室しかなかった。何のしるしもない。ここであってるのかと疑問に思いつつ、私は扉をノックした。
しかし返事はなかった。私はもう一度ノックして、声をかけた。
「すみません、江崎くん。いますか? 直居です」
すると「開いてるよ」と返事がした。私がそろそろと扉を開けると、四畳余りの和室の片隅に男の人が壁に凭れていた。彼は本棚と本棚の隙間にいた。それもやむを得ないことだった。壁はほとんど本棚で埋め尽くされ、床には雑に置かれた本や雑誌が多くのタワーを築いていたのだ。男は読んでいた本に栞を挟んでパタンと閉じると、私を見た。
「ひ、久し振り。私は江崎くんの小学校の同級生だったんだけど。覚えてない?」
「……そうだったかも」
江崎はぽつりと言った。彼は変わっていなかった。薄汚れた服を身に纏ってはいたが、端正な顔つきと、そこに宿る陰翳は昔の気配を表していた。私の簡単な自己紹介を彼はさして興味もなさそうに聞いて、頷いた。
「名字変わったの? この家は親戚の方のとか?」
「借りてるだけ。ここは安いんだ。谷中さんにとっては道楽みたいなものだから」
谷中さんというのはさっきの白髪の老婆のことだろう。
「普段は何してるの?」
「見ての通り。本を読んでる」
「働いてないの?」
「そりゃあ最低限は働きに出るさ。中古の本だってタダじゃない。たまに働いて、その他はここで本を読んだり、散歩に出たりしてる」
そうか、江崎くんはまだ水槽の中に生きているんだ、と私は思った。目の前の彼が小学校の教室でひとり机で本を読んでいた彼に急激に接近して、重なる。江崎くんにとって、水槽は本だ。そしてたゆたうグッピーは紙面に泳ぐ文字たちなのだ。社会からは遠く離れて、ファッションやトレンドとは無関係に、雑踏を好む群衆からは孤立して、彼は自分の方舟を固く守って、日々を送っている。
「ねえ、訊きたいんだけど」私は窓から入り込む西陽に目を細めた。「一生このままだったらいいって思う?」
「まあ、そうだね」
「それじゃあ、君は、江崎くんはここから出なくてもいいの? 地震が起きても、火事になっても、大雪でこの家が倒壊しても?」
彼は質問の意図を計りかねるといった視線をもって辺りの本たちを見まわすと、首を傾げた。
「僕? 僕はどうなってもいいかなあ。本に埋もれて死ねるなんて素敵じゃないか」
*
さとるはまだ水槽を見ていた。
秋の風が窓の外の園児たちを囲む木々の梢を揺らし、夏のざわめきを連れ去っていく。照りつけていた太陽は次第に落ち着きを見せ、毬の糸を手繰り寄せるようにして日照時間も短くなり、夜が近づいた。それと連動するかのごとく焦慮や戸惑いといったものが身体を抜け落ちていき、私の心は角が取れ、滑らかな砥石みたいになった。膨らんだお腹を撫でると、私ではない蠢きを感じる。妊娠して、十週間が経とうとしていた。
さとるは昔日の私と片町のぬくもりを水槽の中へ閉じ込めていた。しかしそれは江崎と会ったことによって、印象をやや変えることになった。江崎は水槽に飲み込まれてしまっていたのだ。さとるもいつか自らの溺愛した水槽に潜って、沈んでいくのだろう。そこから片町との記憶を掬い出せるのは、私しかいないのだ。私は私を受け渡してはいけない。それに、できることなら。私は立ち上がり、壁際に近づいていく。光の中で、鋼鉄のような小魚の泳ぐ水槽を守る彼に近づく。できることなら、さとるのことも――。
さっちゃん、と声が口から零れそうになったその時、水槽の上の窓ガラスが弾け割れた。園庭で遊んでいた子供の投げた小石が窓から飛び込んできたのだった。
私はその光景をしっかりと見た。窓が割れた瞬間、さとるは俊敏な動きで、水槽から離れたのだ。それも自然に、何の躊躇いもなく。
驚いて駆け寄ってくる保育士と、騒ぎだす子供たちの喧騒の中で、私は突っ立っていた。それから急に何かから解放された気分になり、口元には頬笑みが滲みだし、これでいいのだ、となんとなく思った。私は子供を産むことを決めた。
保育園の水槽とわたし 四流色夜空 @yorui_yozora
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