第3話

 事務室の日めくりカレンダーが破られるごとに、ぶ厚く立ち込めていた雲は徐々に薄らいで、空に晴れ間が広がっていく。初めは雨を打ち消すために現れていた太陽が、武器を手に王を倒した臣下が政権を取る風にして猛威を振るいだし、フェンスに絡みつく羊歯類が元気一杯に宙に背伸びする夏が到来した。

 年長のクラスである月組と星組の子供たちが男女二列に手を繋いで、道路の端を歩くのを最後尾で見守る私はシャツ越しに肩甲骨辺りに汗が滲んでくるのを感じていた。人通りの少ない路ではあれ、全く交通量がないということはありえず、チラチラ確かめていた後方から車が現れるのを認めると、「みんな、もっとわきに寄って! 車来るよー!」と危なしげにゆらゆら揺れる頭たちに声を張り上げる。子供たちは石塀に刻まれた溝を手でなぞってみたり、空を横切る飛行機を見上げて前を歩く背中にぶつかったり、軒先に犬がいるのを指差してはしゃいだり、よそ見して石に躓いたりと、そそっかしくて見ていてハラハラする。子供には外界のものがみな鮮明に映っているのだろう。刺激を与えてくるそれらに交わりたくて仕方がないのだ。しかしそんな中、下を向き、足取りの重そうな影がひとつあった。さとるはぽつんと押し黙って、牛が荷を引くみたいにトボトボと足を交互に踏み出していた。さとるの隣の女子は智恵美ではない。利発な智恵美はもっと前の方で周りの子供たちと大声で笑いあっている。もうさとるの傍に近づこうとはしない智恵美を見て、私は失せものが偶然見つかった時みたいな安心感を握りしめた。けれどそれが訪れたのは確かに偶然だったのだろう。あのことが起こってなければ、どうなっていたかは分からない。

 曲がりくねった路地を上り、一団は自然公園に辿り着いた。一カ月に一度は来る、園児たちにとっても親しみのある場所にもかかわらず、彼らはアスレチックや敷き詰められた花壇に目を輝かせていた。ひらけた芝生に用意してきたブルーシートを広げ、お弁当を食べる際にも、隙あらば飛び出したいと肩をモゾモゾとむず痒そうにさせる者は少なくない。小さな身体たちの隙間で漂うその昂揚は階段を昇るように熱量を増し、昼食の時間が終わるのを迎えると頂点に達する。一緒に来た三人の保育士の目の届く範囲なら自由に遊ぶことが許されるのだ。ベテランの村上さんはアスレチックの方へ、同じく中年の辻原さんと私は広い芝生を担当した。

 駆け回る子供たちを器用に取り仕切る辻原さんはまるでオーケストラの指揮者である。経験のまだ浅い私は、芝生に座りこんで四つ葉のクローバーを探したり、寝転んでウトウトしたりしている大人しげな子供たちを見ていればいい。まわりに危なそうなものもないし、と暢気な気分でいると、「ねえねえ」と肩を叩かれ、目の前に差し出された手のひらから何かが飛びかかってきた。私は思わずギャッと身を仰け反らせる。バッタに驚かされた私を見て、その男の子は満足げにケラケラ笑って走り去った。まったくもう、と服の裾を払った時だった――私の目の奥にガツンと大きな衝撃がおとなったのは。私は周りの一切を忘れて、唖然としていた。視野の中心に、人気のないところで木の陰に座ったさとるを捉えて。

 梢の間隙から射すまだらな光線に溶け込んださとるが、藻草に揺られる水槽の中にいるように見えたのだ。私はそこにかつての大学生活期、片町のベッドに潜り込んで迎えた朝を幻視した。禁煙を始める前の煙草の微かに匂う部屋で、微睡みと気怠さを窓から侵入した朝陽が埃と共に浮かび上がらせ、素肌に触れる彼の腕や足や腰のしなやかな筋肉を確かめると、再びぬくさを貪るために寝息に合わせて僅かに動く厚い胸板の向こう側へ、自分から身を委ね、止まった時間の底に沈みこんでいくあの感覚。何も気にしなくていいと分かり、二度寝の渦へと瞼を下ろすあのぼやけた朝の光景と、孤独に木の根元で佇むさとるは、私とさとるが水槽を覗き込む関係をフックにして重なったのだ。水槽を透かして私がさとるに見ていたのは愛だった。激しく照りつける陽光に私は無意識にも額ではなく下腹部に手を当てていた。脈動が響きわたり、生命が疼く。この表現が誇張でないことを、私は木洩れ陽を浴びるさとるを遠目に直感する。生理が来なくなって一カ月と十日、おそらく私は妊娠していた。


   *


 そんなことは自分の身の上に起こるはずがないだろうと何の根拠もなしに目を逸らしていた事態を受け容れることに、さとるの介入が契機となったのは私の深層心理が影絵のように影響しているのかもしれなかった。なぜなら芝生から木洩れ陽のさとるを見てからというもの、片町と身を交える時、決まってさとるのまだ未熟な裸体が脳裡にくっきりと投射されるようになったからだ。しかし私を抱擁し、腰を動かし、生命の液体を解き放つ男はさとるではない。片町とさとるは関係ない。それなのに、片町に抱き寄せられている時、幼いさとるのイメージが彼に重なり、蝶のようにチラつくのだった。それはさながら悪夢だった。嘔吐するみたいに、激しく内側のものを私の中へ注ごうとする男に、冷たく静謐な水槽の前でじっとうずくまって動かない子供の姿が透けて見えた。そうなるともういくらベッド上の行為に、目の前の快楽に集中しようとしても駄目だった。さとるは執拗に私に襲いかかった。そのまなざしは固く、ひたすらに虚ろだった。人知れず密やかに憎悪の炎に燃え立つ水中の花みたいな瞳孔が私に貫かれている。さとるは明らかに辱められたことに対して腹を立てていた。それがあたかも私の作為であったかのように。私が幾許かの安らぎを得るために、無垢な彼を人前で辱め、当然結ばれるべきであった智恵美との中を引き裂いたとでもいうかのごとく。もちろん、それは事実無根の濡れ衣である。あれは断じて私の故意ではない――。それはあの日、七月の末に自然公園に行く前の週の、あれは木曜日であった。昼寝の合間に起こったおねしょの始末をしていたのは、紛れもなく私であった。五歳児でおもらしをする男の子は他にはいなかった。女の子でも今年度に入ってはいなかった。三歳を過ぎたあたりから急にその数は減るので、さとるがしたのは確かに珍しいことではあった。私はさとるの下着を取り換え、濡れた股の間を人肌に温めたタオルで拭った。智恵美がそれを察したのは逃れようのない現実であったとして、私は別室でそれを執り行ったし、とやかく責められる所以はなかった。辱めるつもりなど小指の先ほどもない。たとえ私がまだ無毛の彼の性器を丁寧に拭った時に多少の興奮を、私の性器がこの小さく萎んだ支配の象徴を包み込む想像を抱いたとしても。しかし証し立てるように、それ以来うっすらとではあれ、私の脳内には彼の性器の形が焼きついていた。そんなことは決して望んでいないにもかかわらず、心中の抵抗も空しく、私は水槽の中でさとるに汚される夢想を捨てることができなかった。それは湿る吐息をなめらかに耳元で交わし合った片町との記憶に閉じ込められた生活の変わり果てた姿だった。実際のところ、片町は私と子供をつくることを嬉しく思うだろう。会うたびに繰り返される行為における彼の仕草にはそういった親しみが感じられた。それでも私の心は時の流れに錆びついて鈍さを誤魔化すことができなかった。心を司る時計の針はピタとかつての永遠を指して止まっていた。氷みたいに輝く昔日と、銀の刃物にも似た魚たちの棲む水槽との合わせ鏡に、もはや差し挟まれた私は検査薬の結果を報告することすらできないで、片町の腕に抱かれて眠るのだった。


   *


 幼稚園と違い、八月に入っても保育園は続く。職員たちは園児たちが熱中症や脱水症状を起こさないようにこまめに気配りをする。園庭にプールをふくらませて、水遊びをして涼しんだり、外に出る時には水筒を欠かさないように指示したりした。午前中、身体を存分に動かした子供たちは、頬に朱を差してぐっすりと午睡を満喫していた。

 私はと言えば、むしろ子供たちより体調を崩しやすくなっていた。食欲は減退し、時には仕事中ですら吐き気を催し、トイレに何度か直行した。家に帰れば、床に伏せたまま気を失い、最低の状態で朝を迎えることもあった。そんな不調を訴える身体に影響されてか、私は時折変な感覚を体感するようになった。自分がなんだか影みたいに薄れていって消えてしまうのではないか、あるいはもう既にそれが進行し始めているのではないかという感覚だ。私の子供たちに伸ばしていた手に、躊躇いが生じたのはその所為だった。給食のために部屋に子供たちを呼び集める時、昼寝する子供の寝相の悪さにずれてしまった布団を掛け直す時、子供の親御さんと些細な会話をしに口を開きかけた途端、もしかしたら相手には私のことが見えていないのかもしれないと、行動がそこで途切れてしまうのだった。それとは対照的に水槽の前に張りついたさとるの輪郭は濃さを増していた。さとるは智恵美が離れていったことによって一層厳粛なオーラをまとって、水槽の前に記念碑ばりに背中を見せていた。さとるの隣に座ると、私は魔法の首枷をかけられて、今や言葉すら吐き出すことができなかった。掃除機で吸い取るみたいに彼が私の気配を奪い去って、黒々と存在感を太らせていくことに、体力も精神も消耗していた私はされるがままになっていた。一生水槽の中から出られない気がした。それでいいのかもしれないともう一人の自分が耳朶に囁くのが聞こえた。

 七月の半ばから週に一度のペースで会えるようになっていた片町は、私の顔色がずっと優れないのを見ると顔をしかめた。

「病院に行った方がいいんじゃないか。このところいつもひどい顔してるよ」

「なんでもないよ」

 私はそんな片町の言葉をはねつけた。煩わしくさえ感じ、早く解放されたいと思った。私は彼と顔を突き合わせるたびに、家にいる時くらい一人で気を休めたかった。すると、願いが通じたのか片町は「そうか、倒れてからじゃ遅いからな」などと言って引きさがり、私の身体を慮ってか、交わりを求めることもしなくなった。生理がないのだからする意味もない、不快が募るだけだ、と自分に言い聞かせたが、しかし最初からする意味などあったのだろうか、と仄暗い気持ちが喉にせぐりあげてきて逆効果だった。私は片町が翌朝に出社するのを見送ると、そっと抽斗の箱を開けて、そこにあるのを確認するようにネックレスを取り出して、その澄んだ銀色が朝に溶け合うのを眺めた。そして膝を崩し、頭を床に擦りつけて泣き声を押し殺した。

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