第2話
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さとるくんに興味を抱くのは私だけではなかったらしく、意外なところから私と彼の空間を引き裂く邪魔者が現れた。四歳になる智恵美ちゃんだ。智恵美は男の子に混じって外で走り回る好奇心旺盛な女の子だったが、梅雨が訪れたある雨の日、部屋で他の女の子とままごとをするのにも飽きた様子な彼女の、その標的となったのがさとるであった。私が丁度男の子グループに折り紙のやり方を教え、さとるの方へ向かおうとした時、智恵美は彼の横に場所をとっていた。
「おさかな!」と彼女は水槽を見やったのち、彼に顔を近づけた。「なにしてるの?」
智恵美の質問に対し、彼の反応はなかった。私はなんだかほっとした。なぜならそれは私が幾度も試み、失敗に終わっていた問いかけだったからだ。大半の子供であれば、反応のないさとるに愛想を尽かし、そこで退散する。しかし智恵美は諦めることを知らなかった。彼女は近くの床にあった絵本を手に取ると、彼に突きつけた。
「ご本、読んで。チエが聞いてあげる!」
彼がなおも無視を決め込んでいると、彼女はさとるの肩を揺らした。
「ご本、読んでよ。お願い。ご本読むとね、頭がよくなるんだって、ママが言ってたよ。だからね、して?」
さとるは一度だけ水槽から目を離し、智恵美の方を向いた。だが、口を開くと思いきや、すぐに顔を背け、鉄のような魚の泳ぐ水槽へと視線を戻した。きちんとした返答はなかったものの、反応が得られた彼女は気を取り直した面持ちで、彼の隣に座り直し、真似するみたいに水槽の中を見た。
「おさかなだね」
しばらくして智恵美が呟くと、さとるはほとんど傍目には分からないほど小さく頷いた。智恵美はそれに気づかなかったのか、少し間をおいて、同じ調子で問いかけた。
「なにか見える?」
彼は、またもや注視していた私にしか判別できないほど、些細な素振りで首を傾げた。
その並んだ二つの影は私にひどく羨ましく映った。
それからしばらく雨の滴が窓を柔らかく打つ日が続き、智恵美はさとるの傍にいるようになった。私にはできない智恵美の積極的なアプローチに、些末な動作であったり少なすぎる言葉であったりしたものの、さとるはぎこちなくも無視ではない反応を示していた。私は手放しでは喜べない心境でそれを見守っていた。年柄にもない嫉妬心が智恵美に対して湧き上がることさえあった。さとるは智恵美の呼びかけに応じ、水槽から離れ、絵本を広げたり、不器用な手つきで積み木を組みあげるまでになっていた。彼は多くのものの一部になろうとしていた。そんなさとるの輪郭には以前はあったミステリアスさのような、私にとっての神聖さといったものは薄れて見えて、私にはそれらが終いにはかさぶたみたいに剥がれ落ちてしまって、不必要な価値しか持たない過去の遺物として処理されてしまうのではないかと不安に思えてくるのであった。
*
「直居さん、どうかしたの?」
園庭の隅にある洗濯機でタオルや子供の汚した衣類なんかを洗い終えるのを待っていると、手伝いに来た波多野さんが壁によりかかって面倒そうに訊ねてきた。
「なにがですか?」
「このところ具合悪そうにしてるから。偏頭痛? よくぼーっとして頭に手を当ててるじゃない?」
彼女は自らの頭部に手を当てて物思いに耽っているフリをした。波多野さんはこの園内で私に最も年の近い一つ上の先輩だった。同じ世代の人が他にいないというのもあって、彼女と私は妙な親近感で繋がっていた。
「いえ、ただの二日酔いです……」
このところ私は帰ってから、行き場のない思いを酒で紛らわせるようになっていたのである。水槽と彼と私とで微妙な按配に構築された三角形が壊れてしまったことに、私の心は動揺していた。その気持ちはどう形容したらいいのか、そこはかとない悲しさでもあったし、居場所が奪われた落ち着かなさや気まずさでもあった。それに智恵美とさとるが共謀して私を罠に嵌めたかのように錯覚して怒りを覚えもした。私は要するに欲しい玩具が買って貰えない子供さながら拗ねていたのである。そしてそういった感情の波をやり過ごす手立てがアルコール以外にはなかった。
ふと波多野の眼鏡の先に視線を向けると、濃い緑の茂みの中で青とピンクの鮮やかな紫陽花が花を開かせていた。雨期に咲く紫陽花、わざわざ人が屋内に籠もる時を狙って花弁を開く魂胆とは何なのだろうか。いずれにせよ、摘まれない命に幸あれ、と私は思う。
「波多野さんは子供が好きですか?」
「それは、まあ」
「なんで好きなんでしょうね」
「そりゃあ純粋だからじゃない? あたしたちみたいに汚れた大人になってない子供にさわれれば、こちらもいくらか救われた気分になれる」
「実際の彼らは泥だらけですけどね」私は笑って、洗濯機を覗き込んだ。「あと三分で終わるみたいなんで」と私が言いかけたところで、
あ、と波多野は天を見上げて声を漏らした。
午前に降って一旦止んでいた雨が再び地上に注ぎ始めたのだ。紫陽花の葉陰は雨粒にパタパタと音を立てる。
「また内干しかあ! 嫌になっちゃうね、全く」
波多野さんは壁から身を起こすと、大仰そうに両手を天に上げて大きく伸びをした。降り出した雨に呼応するかのように、遊戯室からは軽やかにベートーベンの「エリーゼのために」が聞こえてくる。
*
梅雨の終わりに近づいた夜、久し振りに片町が私の家に来ることがあった。私の方が帰りが早いから、自分のためにはしない手の込んだ料理を作った。彼が来る途中で買ってきた白ワインで、私たちは乾杯した。
「仕事の方はどう?」
私が訊くと、彼は照れた色を浮かべた。「悪くないよ。まだ二年目なのにもうすこしで大きな企画にも携われるかもしれない。こないだプレゼンに行った先の重役が目をつけてくれたみたいで」彼はローストビーフをひとつ摘まんで、炒めたアスパラを口へ運ぶと、グラスを傾けた。「そっちこそどうなんだ。もう慣れた? 子供の扱いって難しいだろう」
思ってたより苦じゃない、と私が返すと彼はうんうんと全て分かっているとでも言いたげに頷いて、感慨に耽る風に遠くの方へ目をやった。
「この分だとあと何年かすれば、俺がヘマさえしなけりゃ、家を買うくらいにはなれるかもしれないな。早く安定したいもんだ。俺がもっと稼いだら、君だって家業に専念できるわけだし」
「なにも、問題はないの?」
「ないさ」彼は満足そうに言った。おそらくこの暮らしが本当に気に入っているのだろう。「もし子供が産まれたって、うちにはそのプロフェッショナルがいるわけだしな。心配いらないよ。なにか不安になることがあれば言ってくれ。二人で助け合っていけばどうにかなるさ」
片町は未来の光景に酔い痴れていた。しかし私はどことなく彼の求める景色に馴染んでいけないところがあった。彼の見ている景色の一部に本当に私はいるんだろうか。そうでなければ私はどこにいるんだろうか。単なる杞憂かもしれない。彼の言う通り、あたたかい縁に彩られた生活が待っているのかもしれない。疲れから気分が悄然たるものになってしまっているだけなのかも。けれど、彼の望む未来図にいるはずの私がどんな表情をしているのか、想像をすればするほどそれは誰かが私の仮面をつけているとしか思えないのだった。
その夜、私たちは電気を消した布団の中で抱き合った。しばらく振りのセックスだった。彼は頑丈な船のような力強さで、あらゆる厄災も舵を取って乗り切れる、揺らぎのない自信をもって私の華奢な身体を抱いた。私は今にもバラバラになりそうな自分を繋ぎとめるために必死に彼の背中にしがみついた。
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