保育園の水槽とわたし

四流色夜空

第1話

「さっちゃん、今日はなんだか暖かいねえ」

 私は、星組の部屋の隅に置かれた水槽にしがみつく篠原さとるの隣に屈んで、窓から見える園庭で子供たちがきゃっきゃと戯れる、その周りに植えられたツツジや八重桜の青々とした緑葉がさわさわと心地よく揺れるのに、春から夏へ受け渡される季節のまたたきを感じて、口を動かした。園庭では遊具や砂場を取り囲んで、幼い子供たちが各々互いに言葉や動作を投げかけながら、精一杯に相手との関係を取り結ぼうとしている。人は年を経るごとに、外界の世界に触れるたびに、他人にも世界があることを知って萎縮し、自らの内側の領域を狭めてしまう。他人への協調という名目のもとに自分の表現をどこか諦めてしまうのだ。それゆえに私は保育園に勤めることに決めたのだった。園児たちは遠慮ということを知らない。それがいっそ清々しかったのだ。

「ねえ、さっちゃん。絵本でも読んであげようか」

 さっちゃん、さっちゃん。問いかけてもさとるはこちらに見向きもせずに水槽の中を食い入るように見つめていた。昼寝の時間が終わった自由な時間はいつもこうだ。私も不機嫌な顔色を見せないようにして、ありきたりとも呼べる海底の写真が背景に設えられた水槽の、小さな濾過機が起こす水流にそよぐ藻草と、取り澄ました感じでゆったりと泳ぐ三匹のグッピーを覗き込んだ。青い尾鰭と銀色の胴体をしたグッピーたちはなんだか金属っぽい。だけどそれを凝視するさとるの両目は引きを取らない無機質っぷりだ。先月、五歳になって、この保育園内では最年長だというのにさとるは一向に周りの子供たちと交わろうとせず、職員たちの軽い悩みの種にもなっていた。三、四、五歳が年長として一緒くたに過ごすこの星組のクラスに入ってから、彼はずっとこの調子らしい。ただ、別に問題のある素行を見せるわけでもなく、変わっていることと言えば周囲より一段大人しいだけ、自由な時間になれば水槽の前から動かず、それ以外のことに普段から興味を抱いていないくらいのものであり、取り立てて彼を色眼鏡で見ることもなかった。

 なにが見えるの、と私は問いかけながらさとるの横顔を盗み見る。

 押し黙った彼の表情に機微はなく、唇は横一線に結ばれたままだ。まるで私など最初から存在しないように。世界に確かに屹立するのはその水槽だけだと言わんばかりに。冷やかさを放つ面持ちは、瞼のないグッピーの目のように濁ったままで読みとれなかった。

 陽が次第に傾きだし、園児たちに徐々に迎えがやってくる。さとるの母親は他と比べるとやや高齢の三十半ばといったところで白い毛の目立つ髪を後ろでひとつに束ねた苦労顔した女性だった。母親が来ても大抵の場合、さとるはそれに気づかず、興味を水槽から逸らすのは私の役目だった。

「ほら、さっちゃん。お母さんだよ」

 口で言っても彼には聞こえていないことさえあった。肩で揺するとようやく顔を上げるのだ。彼の母親は見た目と違わない腰の低い人で、朝送ってくる時も、夕方迎えに来る時も「どうも、お世話になって」と職員にぺこぺことお辞儀をした。彼女にやや変わったさとるについて、聞いてみたこともある。すると、愛情の滲んだ風な笑顔で彼女は「ちょっと変わったところがあるんです。家でもほとんど喋りませんし、自分で興味を持ったこと以外には関心をまるで抱かないんです。一度病院に連れていったこともあるんですが、いまのところ知能への障害もないようですし、私はこの子はそのまま育ってくれたら思っています」とそう言っていた。母親とさとるとの関係は良好に築かれているものらしい。しかし、この保育園に勤めて二年になる今、さとるの母親が扉を開けて、入ってくると、なんだか安心と共に、いやむしろ切なさの方が胸の内をせぐり上げてくるのだった。

 母親はさとるの手を引いて、俯き顔の子供を諭す。「さとる、先生にお礼言って」

 それに対して、私は朗らかな笑顔を顔に宿してこう言うのだ。「また、明日ね」と。

 切なさ、それが生じるというのは私がこの業界に慣れてきたからなのであろうか、単純に考えてみればそうだろう。けれど、それでは納得できないような他の子たちと一線を画した印象がさとるに対しては存在した。おそらく水槽を見入る彼とその横で佇む私、その空間に私はいつか失われてしまった憧憬のようなものを見ていたのだろうと思う。私はあの二人の空間を愛していたのだ。だからさとるの母親が迎えに来る瞬間は、私にとって関係を引き裂くものであり、運命による惜別のような印象を私の心に植えつけるものとなっていた。


   *


 子供が帰っていくのに合わせて職員の数も減り、子供がいなくなった施設に残ることになるのは四人ほど、私が遊戯室の掃除をこなし、外の倉庫の鍵閉めを確認して、事務室に戻ると中年の女性が二人、雑談しながら書類の管理をするためそれぞれのデスクに向かっていた。私も自分の日誌をつけて、今日の仕事を終えようとすると、斜向かいの村上さんが声をかけてきた。

「直居さんはまだ結婚とかしないの? そろそろ身を固める年頃じゃない?」

「いい話が舞い込んできたらいいんですけどねえ」

「あら、ないはずないじゃない。ねえ?」真向かいの藤木さんは隣の村上さんと顔を見合わせた。「近づいてくる男はいくらでもでしょう。肝心なのはその中にマシなのが混じってるかどうかよね」

「藤木さんのとこなんてまだいいじゃない」村上さんは口を尖らせる。「うちなんてもうだめよ。家事なんて一切やらないんだから」

「男も子供と同じで、しつけが必要よね」

「もう本当に」

 二人に合わせて、私もヘラヘラと笑って見せる。職員はほとんどが年上の女性だからこの手の話題はままあることだ。そんなことをしてる間に壁に掛けられた時計の針は九時を指し、用務員を除いて唯一の男性である園長が園長室から出てくる。

「皆さん、お疲れ様です。そろそろ切り上げて、あがっちゃってください」

 私たちは口々にお疲れ様ですと、今年で五十四にもなる園長に返事をして帰りの支度を始める。

 帰宅を待つマンションのワンルームは暗闇を育んでいる。電気を点けながら、私は事務室のたわいない会話をフラッシュバックさせて、机の抽斗を開ける。小さな黒い箱にしまわれているプラチナのネックレスを指で撫でると、否が応にも結婚という二文字がその特有の重みを伴って、頭の中に立ち現れる。証券会社の彼はまだオフィスビルで山積みの仕事と格闘しているのだろうか。二か月前、ネオンのまたたく夜景を見降ろすイタリア料理のレストランで私は婚約を申し込まれた。意外性はなく、私はとうとうこの時がやってきてしまったかといった感じで曖昧に頷くしかないのであった。

 片町文也と知り合ったのは大学に入ってすぐ、覗いてみたバドミントンサークルでのことだった。運動不足の解消になるかと見に行ってみたサークルではあったが、結局ちゃんと活動らしいことをするのは月に二回だけで、それ以上にビリヤードやダーツや飲み会の激しいことを知って、私はそこに足を向けなくなった。片町は新入生歓迎会の時に会ってから関係が続いた数少ないうちの一人だった。他の者と違わず、交友や行動の活発なところはあったが、粗雑さの中に微かにではあれ誠実さが見えた。それが彼を遠ざけなかった主たる理由であったろう。大学で出会った多くの者は、世間における多くの者と同じように粗雑さに傾き過ぎていた。しかし、かといって私も嫌々付き合っていたわけではない。私は彼との関係を楽しんでいた。彼のアパートで同棲まがいの生活をした時期もある。大学の講義の始まる時間にフライパンで焼いたホットケーキを二人で分けあった瞬間は、今まで生きてきた中でもトップクラスに幸福に近づいたものであったと思う。私たちは二人で裸に毛布にくるまり、フランス映画を見て、トレンドであった洋楽の音楽を聴き、学校の友人の噂話なんかをして、唐突に愛を語り合ったりした。夜になると、指を絡めあってひっそりとした路地をそぞろ歩いた。彼は将来結婚したら、犬を飼おうと呟いた。区別のつかないどの一日もが凝縮された愛を意味していた。彼の渡したネックレスがその結晶として過去の眩さを物語っている。しかし私にとっては――。

 私は冷凍食品をレンジで温め、疲れた身体にインスタントの味を染み込ませながら、テレビのバラエティ番組を脳内処理できない頭で見る。なりゆきの食事を済ませると、皿をシンクに積み、衣類を脱いで洗濯かごに放り込む。下着は私の身体を離れると、使い古された見知らぬ物体に変わり果てる。シャワーから流れる熱湯を浴びると、血流が廻りだし、頭で止まった思考がすり切れそうなテープレコーダーみたいに再開される。

 止まってしまったのだ、私にとっては。大学を卒業すると、片町は大手の証券会社の支社に、私は私立の保育園へと就職が決まった。二人の希望通り、どちらも引越しの必要のない立地に配属もされた。けれど社会に出るとなれば、大学の頃のようなお気楽な生活を維持することは能わない。彼と会う回数は、ごく限られたものとなった。なんとなく永遠に続くと思っていた日常は跡形もなく、その影を変えてしまったのだ。私の気持ちが彼から離れるのに、長い時間は要さなかった。そんなの贅沢な言い分だ、社会の自覚を準備するためにモラトリアムは設けられている、なんていうのも分かっている。だけどそう言い聞かせても、胸に熱情が戻ることはなかった。私は空虚な思いを引き摺りながら、毎日子供と向き合っている。まるで彼らからかつての興奮が、呼び起こされるのを待つかのように。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る