第五章

約束の代償

「ネフテュス! ……ネス!!」


 ──誰かの嘆きが聞こえる。

 視界が何も見えぬまま、ネフテュスは身をよじった。横に倒れているのだろうか、背中が冷たい。


「ネス……起きてよ、ネフテュスッ!」


 涙ぐんだ声色。

 実際に涙しているのだろうか、その声は震えている。魘されるように眠り続けるネフテュスの目元には微かに皺が寄っていた。


「う……、んぅ…………!!」


 ──恐る恐る目を開ける。

 目の前には涙で真緑まっかに目を腫らしたレーカの顔があった。辺りはもう暗く、太陽が地平線の向こうを照らしている。


「ネフテュス!」


 レーカはネフテュスを抱きしめた。


「ぐぁ……っ、痛っってぇ!!」

「もう、心配……したんだから」


 思わず安堵の息がもれる。痛みに喘ぐネフテュスだったが、レーカはそれほど心配で気が気でなかったのだ。

 やがて、全身の感覚が鮮明になってきたところで、頭部を支える弾力に気がつく。

 それに、やけに顔と顔が近い。


「ッ!? す、すまん! 痛ッ!!」

「……膝枕ぐらい別にいいわよ、じっとしていなさい」


 無理に起き上がろうとするネフテュスを無理やり横たえさせるレーカ。頬を染めながら、若干目を逸らしている。


「あ、あぁ……」


 言葉にならない反応を見せた後、ネフテュスはだらりと力を抜く。レーカの膝に頭を預け、再び眠りに落ちていった。

 膝枕をしたままレーカはぼうっと空を見上げる。そして、悲しみの粒を流した。


「お父さん、お母さん……」



 輝く星空に、涙が煌めく。



 ***



 アトラスとヒメカに場を助けられ、レーカは訪れたことのある集落へ身を寄せていた。そこは殻人族たちが暮らす場所ではなく──むしろ悪目立ちしてしまう。


「また会えて嬉しいよ、レイン。いや、レーカ」

「ごめんなさいねニーオ。少しの間、ここにいさせてもらえないかしら?」

「それはいいけど……その様子、何があったの?」


 レーカは素直にこれまでの経緯を話した。話の内容を聞くニーオだったが、聞けば聞くほどその顔色は悪くなる。


「……そう。それは、大変だったね」

「ううん。本当なら、こんなところで立ち止まっていられないの。でも、今は……」


 そう言って、腹部の傷と腕の傷を見る。痛々しい切り傷や打撲の痕、想像を絶する戦いであったことはニーオにも容易に理解できた。


「だけら、ここで休ませてほしいのよ」

「わかったわ。でも──」


 ニーオは言い淀む。しかし、はっきりと伝えた。


「必ず、あいつに勝ってね。私たち一族の代わりにも……」


 傷を負っていたのはレーカたちだけではない。それは蜘蛛人──殻魔族も同じだ。サタンの裏で暗躍していた人物に当然、何の恨みも持たない訳がなかった。


「もちろん、私も協力する!」

「ええ、ありがとう。私、必ず……勝つわ!」


 レーカは決意を新たに、今できることを全力で成すのであった。




 傷を癒す。それが今のレーカがしなければならないことだ。アトラスお父さんヒメカお母さんが作った時間を決して無駄にはできない。

 レーカは傷薬で身体を癒し、そして今──身体を綺麗に洗い流していた。


 カポーン。

 石畳の床をぺたぺたと歩く音が響く。湯気が昇り、辺りは薄らとしていた。傷口を綺麗に洗い、湯船に浸かる。最初は少し染みるような痛みに顔を歪めるレーカだったが、すぐに湯の温もりに身を委ねていた。


「はぁ、やっぱりいいわね」


 風呂は心の洗濯とも言うが、まさにその通りだとレーカは感じる。さっきまで辛かったはずの心が糸が解けるように溶かされていく。


「レーカ、先に入ってたんだね」

「あ、ルリリ。ルリリもこっちに来なさいよ。温かいわ」


 ルリリを手招きすると、肩まで湯船に浸かる。ルリリの横で水面に映った自分の顔を眺めた。


 するとどうだろうか。

 レーカの表情は曇っているように見える。ルリリから見ても、今のレーカはハイネと戦うことを迷っているようだった。


「なんで迷ってるの? もしかして、あの言葉が……?」

「うん。殻人族は滅びの道を歩んでるって、その言葉がどうにも引っかかるの」

「そっか」


 ルリリは頷く。


「レーカはレーカの信じたいものを信じたらいい、と思う……よ?」


 特に意識するでもなく、すっと言葉が飛び出した。

 これまでルリリは、ずっとレーカを信じてきた。ルリリもレーカを信じたいから信じるという、とても簡単な理由だ。これはレーカと初めて会って、決闘に負けてからルリリが気づいたことでもある。

 今のレーカはたった一部を除いて、昔のルリリと似たような状況であった。


「そう、そうよね」

「うん。でも──」


 ルリリは補足しようと、口を開く。


「いや、なんでもない」

「ん……?」


 ルリリは心の奥底にそっと仕舞い込んだ。今レーカに必要ないことは、言わなくて良いからである。


 ──今のレーカはハイネを想い迷っている。

 ルリリがレーカに嫉妬していた事とは異なり、優しさ故の迷いに口出しする理由もなかったのだ。

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