第二章

少女との邂逅

「風呂っていうのがあるんだなー! 本当に温かいのか……?」


 この近くには、『大衆浴場』といわれる身体の汚れを綺麗にする場所があるという。昆虫たちは一部の例外を除いて、水に触れるのは禁忌だ。しかし、進化した殻人族はその弱点を克服していた。


 ──先に制服を渡しておきますので、どうせならそれに着替えてしまってください。


 受付の人はアトラスが『大衆浴場』へ向かう前に、制服とサービスとしてタオルを渡した。アトラスは受付の人に言われた通り、大衆浴場へ向かう。

 そこには赤と青の二つの暖簾があった。アトラスはその意味を知ることなく、赤いほうの暖簾を潜り抜けた。

 更衣室という場所で汚れきった服を脱ぎ捨て、蔦で編まれた篭にそれらを放り込む。地底と比べると、植物の蔦が多くの場面で用いられていた。


「さて、入るか! 温かいのは初めてだからかなり気になるな!」


 アトラスは勢い良くそのドアを開ける。

 目の前にあったのは──


「おおっ! スゲー!! 本当に湯気だ!」


 前が見えないくらいの大きな湯けむり。

 アトラスの棲んでいた地底では、お湯につかるという風習はなく、木の根から湧き出た水に身体を濡らすというのが一般的。だからこそ、温かな水につかるというものは間違いなく初めての経験だった。

 お湯のある場所までしばらく歩くと、湯けむりの中に人影があることに気がつく。その影は明らかに自分とは異なっており、やけに凹凸があったり丸みを帯びていたり、


「誰……?」


 その影は姿の見えないアトラスへ向けて声を投げた。その声は透き通るような声で、とても心地良い。


(ん? なんだろう……?)


 アトラスは声のするほうへ歩いていく。

 湯気の中、声が反響して影に近づいていることがわかるが、視界が曇るせいでなかなか顔までは見えない。しばらく歩くと、アトラスは影の正体──少女の裸を見てしまった。

 肌はきめ細かく、絹のような白色。

 体つきも殻人族の雌らしく、胸もそれなりに膨らんでいた。その頂きは黒い殻に覆われていて、その装甲は横腹まで繋がっている。

 湯に濡れた銀髪はどこか艶かしさまで覚えてしまうほどに綺麗であった。瞳はエメラルドの宝石のように、ゆらりと煌めいている。


「っ!? き……」


 アトラスと目があった途端、少女の身体が硬直した。顔はだんだんと緑色に染まり、ぎりりと歯を食いしばるような音がして、


「き?」

「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 甲高い悲鳴をあげて影の正体──銀髪の少女が身体を手で隠した。


「え? どういうこと!?」

「いつまでも、こっちを……見るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 少女は横腹から枝のような何かを取り出して、高速でそれをアトラス目掛けて振り下ろす。


「うぉっと!」

「っ……!?」


 互いの甲殻武装が激しくぶつかり、握る手がぐらりと揺れる。距離をとって少女はなにやら、頬を染めた。

 ──これこそがアトラスとヒメカの初の邂逅だったのだ。


「貴方! 謝罪の一言もないの!? ここは女湯よ!?」

「お、女湯……!?」

「今知ったみたいな顔をしないでくれる!?」


 言葉に詰まる。

 何故なら、さっきの場所が女湯だということを、全くもって知らなかったからだ。そもそも性別によって分けられていることすら、アトラスは知らなかったのである。間の抜けた表情をしていると、ヒメカがさらに怒鳴った。


「扉が二つあったでしょう! 青い看板があるのが男湯で赤が女湯! それぐらい知っているでしょう!? この変態!!」

「ごめん! 今日ここに来たばかりで何もかもが新鮮なものばかりで! 本当に知らないんだ! 覗いてしまって、悪かったとは思うけど……許してください!」


 アトラスは今の事情を全て説明して弁明を図る。


「そんな、何も知らないと言い出すなんて……さらに怪しいわ」

「え、ええと。あれ? 確かに怪しいかも」

「ちょっ、自分で納得しないでくれる?」

「でも本当に何も分からなくて」


 アトラスは顔を染めながら更衣室に戻り、受付に渡された制服に袖を通す。

 制服は白の長袖に緑の上着、グレーのズボンまたはスカート。しかし、上の制服には丁度、横腹のあたりにスリットがあり、アトラスにとっては物珍しい。

 制服を身に纏うと、脚跡の鎧クラストアーマーが丁度飛び出すようなつくりだ。

 急いで外に出て、再びヒメカへ謝った。


「さっきはごめん! 本当に知らなかったんだ!」

「それはさっきも聞いたわ。ところで貴方、えっと……」


 ヒメカはアトラスに事情を詳しく尋ねるべく、一瞬立ち止まる。


「あ、俺はアトラス! 今日からここに編入するんだ。よろしくな!!」


 名前を聞こうとしたのか、勘違いしたアトラスは笑顔で右手を差し出す。しかし、ヒメカはその手をはたいて、


「そうじゃないわよ。貴方……いえ、アトラスはどこから来たの? どう考えても、常識外れだわ。いや、というよりも、知らなすぎるのよ……」

「えっと、それは……」


 アトラスは地面を指差した。地の深く底を。


「なっ……! ば、馬鹿じゃないの!? 地中から来たっていうの!? 貴方やっぱり怪しいわ」


 ヒメカは両手で身体を守るようにして抱きしめる。


「ちょっ、本当に知らないってさっきも言ったはずだけど!?」

「今時、地底で生活する者はいないわよ。皆、この場所……『森』っていう楽園で生活してるんだから!」


 ヒメカはおぞましいものを見たかのように目を見開いていて、それでも説明を続けた。


「まあ、『森』の外から移住する人もいるけど……地中で生活するなんて人はまずいないわよ? だって、危険すぎるもの!」

「え、えっと……そうなの?」


 アトラスには惚けている様子すらない。

 ただ純粋に、『分からない』といった表情だ。


「そんな事も知らないの? あれ……? とぼけるにしても、もっとマシな嘘をつけるはず。本当に何も知らないのかしら? でもやっぱり怪しいわね」

「そんな!」

「どうしてもって言うなら、私と決闘をしなさい! 私に勝てたら、さっきの出来事はすべて水に流してあげるわ」


 ヒメカは少し、悩んだ末にそう答えた。


「は? け、決闘……?」

「そうよ! 私たちは学校に通う者同士、私と決闘をしてどちらが本当に正しかったのか証明するの。さて、どうかしら?」

「わ、分かった」


 もう自棄になってアトラスは決闘を受ける。しかしその顔はもう泣きそうだ。



 ***



 アトラスと別れた後、ヒメカに決闘について尋ねた者がいた。フリルのついた所謂、メイド服の装いで草木の影から顔を出している。


「あの編入生……。ヒメカ様、本当に良かったんですか!?」

「いいのよ、ヤマト。今更、私も疑っている訳でもないから。あの表情は嘘をついていないわ。当然、許すことはできないけどね」


 ヒメカは本当のところ、アトラスが嘘をついていないことに気がついていた。しかし、ヒメカはアトラスに決闘を申し込んでいる。


「だとしたら何故、決闘を申し込んだのですか!」

「それは……ぃからよ」

「はい?」


 今にも消え入りそうな、ほそぼそとした声でヒメカは言う。付き人であるヤマトも聞き返していた。


「だから! 計り知れないからよ……あのアトラスと名乗った男の実力が!!」

「……は?」

「私はあの悪夢を見てから強さを求めて戦い続けてきたの。今じゃ『茨の令嬢』なんて呼び方もされているみたいじゃない? それなのにあの男は、私の一撃に軽々と反応してみせた……!」


 ヒメカは騒動の詳細を話す。しかし、未だにあんぐりと口の空いているヤマトにさらに熱く語る。


「貴女は私の甲殻武装を知っているでしょう! 私のは速さと行動制限が強みなのに、あのどっしりとした態度」

「それが気に入ったと?」

「ええ。そのうち交尾を……って、え!? 違うわよ!? そうじゃなくて! 気に入らないのよ、余裕そうに私を受け止めたあの態度がっ! 地底、だなんて有り得ないことを言うし」


 耳まで染めて、ヒメカは慌てている。その様子を見て、ヤマトはうんうんと頷いた。そして確信を得る。


「ふむふむ……なるほどなるほど。ヒメカ様はあの少年のことが気になるんですね」

「ち、ちちち違うわよ!? どうしたらそんな発想が出てくるのよ!?」

「明らかに動揺してるじゃないですか。ヒメカ様ったら、可愛いですねー!」

「はあ、もう諦めたわ……」



 ***



 ヒメカの付き人、ヤマトはけらけらと笑いながら動揺するヒメカを見守る。そこには曇りひとつない、『歓喜』という感情があった。

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