中編

 あまり長居しすぎるのは良くないということで、正太郎への見舞いは、いつもほんの少しの時間で終わる。この日も早々に病室を後にしたけれど、病室を出ようとしたところで、部屋に鞄を忘れてきたことに気づいて引き返す。


 ほんの少し前に出てきた病室のドアを、再び開ける。だけどその瞬間目にしたのは、その時からは想像もつかない正太郎の姿だった。


「ゲホッ──ゴホッ──」


 ついさっき、笑って私を見送ってくれた正太郎。だけど今その表情は苦しそうに歪み、何度も激しく咳き込んでいた。


「正太郎!」


 その光景に一瞬どうすればいいか分からなくなって、だけどすぐに駆け寄り、背中をさする。正太郎が落ち着くまで、苦しみが和らぐまで、何度も何度もさする。


 それがどれくらい続いただろう。ようやく咳も減り、次第に呼吸も落ち着いてくる。


「ありがとう。迷惑かけたな」

「正太郎──」


 大丈夫? そんな言葉が口から出かけて、だけどそれが声になることはなかった。

 だって私は、既に答えを知っている。それを彼に問うのが、いかに意味のない事か分かっている。


「ごめんな──」

「ごめんって、なにが?」


 謝られる心当たりなんて何もない。だけど戸惑う私に、正太郎は苦しそうな顔で告げた。


「さっき言ってた、来年のオリンピックを一緒に見ようって話、無理みたいだ」

「──っ!」


 あまりにもアッサリと零れたその言葉。だけどそれは、決して冗談なんかじゃない。

 病院の完治は難しく、一年持つか分からない。それが、正太郎の置かれた現状だった。どうしようもないくらい、残酷な現実だった。


 私がそれを聞かされたのは、今から少し前の話。その時には既に、正太郎本人も知っていた。

 なのにお互い、不思議なくらいその話題に触れる事はなかった。ううん、私の場合、不思議でも何でもないか。

 だって、いざそれを突きつけられると、どうなるかなんて分かりきっていたから。


「洋子?」


 名前を呼ぶ正太郎の顔が歪んで見える。いつの間にか自分でも気づかないうちに、私の目には涙が溜まっていた。


「ごめん──」


 申し訳なさそうに謝る正太郎の前で、何度も目をこすって涙を拭う。

 今すぐこの涙を止めたかった。だって私が泣いたら、正太郎を困らせる。本当に辛いのは正太郎のなのに、そんな彼に気を使わせたくなかった。


 だけど、一度零れた涙は簡単には止まってくれない。私の弱さを突きつけるように、いくら目をこすっても、その度に何度も溢れてくる。


 それでも、このまま正太郎を困らせたままでいるのは嫌だった。自分の弱さが変えられないのなら、せめて言葉だけでも強くしようと、涙を流したまま、必死で言葉を紡ぐ。


「正太郎。来年、一緒にオリンピック見ようよ」

「えっ──」


 それは、たった今正太郎が、無理かもしれないと言ったこと。諦めを持って否定したこと。

 だけど私は、あえてそれを再び言葉にする。


「無理かどうかなんて、そんなの分かんないじゃない。約束してよ、来年、一緒にオリンピック見るんだって」


 もしかすると、私は今とても残酷な事を言っているのかもしれない。こんな、叶うかどうか分からない約束を無理やりさせるなんて、余計に困らせるだけかもしれない。


 それでも、こうして未来に目を向けることで、少しでも何かが変わると信じたかった。


 正太郎は、少しの間黙ったまま、何も言ってはくれなかった。

 だけどそんな沈黙の後、ニコリと笑って言った。


「ああ、そうだな。来年、一緒に見ような」


 その時彼の目に、今まで一度も見せたことの無かった涙が、ほんの少しだけ浮かんだ気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る