第3話 カクレンボ
*
四十年前、おれと香苗は、この森で散歩をしていた。
ここが〈悲しみの森〉と呼ばれていることを知っていたし、おれは乗り気じゃなかったんだが、その日は、あいつにせがまれてよ。
森の小道を抜け、若葉のにおいをかぎながら二人で手をつないでいると、あのオオモミジの前に差しかかってな。
そこで――
ひとりの侍が突っ立っているのが見えてな。
そう、山田源作だ。
おれたちは心底たまげたが、あのぼんくら侍も驚いていたよ。
「おれが、見えるのか」と、彼はそう言った。
不思議な時間だった。
彼は自分を見ることのできる人間に親しみを感じたのか、ある人を待っていることを話してくれたよ。
そんでもって、以前おまえに話したように、あのオオモミジの話になって、おれと香苗は、森の番人としての力を、奴から授けられたってわけさ。
でもな、その後に、おれと香苗はまたしてもたまげることになった。
山田源作がゆっくりと消え、おれたちがオオモミジの前から立ち去ろうとすると――
そのでかい樹体の中からぼんやりと、だが徐々に姿形をはっきりとさせ、その人は現れた。
簡素な木綿の着物で身をまとい、よく整った結髪に鼈甲のかんざしの似合う、全体が涼やかな女性だった。
そう、その女性こそ、おくにさんだった。
おくにさんは七十歳くらいで亡くなったはずだが、おれたちが会った彼女は若かった。
おそらく、自分の生きた中で、一番楽しく――辛かった時の想いがその姿に反映されていたんだと思う。
おれが親父に見せられた彼女の写真は晩年になってからのものだったが、そのときの印象と同じく、優しくて、幽霊なのに人を安心させる雰囲気のある人だったよ。
彼女は、山田源作よりも色々な話をしてくれた。
自分の生い立ちのこと、彼女の養子でおれの祖父のこと、自分が起ち上げた仕事のこと、今はたまに街をふらりと浮いて散策していること、そして、山田源作との思い出のこと――
さしでがましいとは思ったんだが、おれは彼女に訊ねた。
「彼なら、すぐそこで待っている。なぜ、会ってやらないんだ」
すると、彼女は線のきれいな首をゆっくりと横にふった。
「わたしも、待っているの」
となりに立つ香苗は、その意味をわかったのだろう。
けげんな顔をしたのは、おれだけだった。
おくにさんは、誰かの後を追うように、遠くへと視線を向けた。
「なんだかんだいっても、わたしは、幸せな人生を送ったわ。でもね、ある時代のある時から、大切な人と向き合うことが叶わなくなった。わたしは、彼の後ろ姿ばかり見て、彼はいつも先を見ていた。わたしは、ここにいるのに」
彼女の話にうなずいている女房の視線を、おれは感じていたよ。
「男ってバカなのよね」と言っているようで、おれはそんな視線を無視していたがな。
「息も絶え絶えの彼を、山中で見つけたときは、正直、どうしていいかわからなかったわ。わたしを捨てた憎い男っていう気持ちもあったし、でも……わたしにとって、唯一の人だということもわかってた。気づけば、木陰を伝って、彼を追っていたわ。もう手遅れだっていうのはわかっていたけれど、そうせずにはいられなかった。不思議なことに、彼がオオモミジの前に着いたときには、覚悟ができていたわ。今の彼を受け入れるっていう覚悟がね」
そう言ったときのおくにさんの表情は寂しそうだった。
ああ、この人には報われてほしい、と心から思ったよ。
でも、すぐに彼女はいたずらっぽく笑って、こんなお願いごとをしてきた。
「あなたたち、さっき、彼と話していたけれど、わたしがここで待っていることは言わないでね。彼には、ちゃんと気づいてほしいの。子供じみた意地だけど、彼からこのかくれんぼを終わらせてほしいから」
そしたら――とつぶやいて、彼女はつづけた。
「そのときは、二人で旅に出たいわ。こういう体だから、身軽だしね。このオオモミジもね、それを応援してくれてる。この体になって、このオオモミジの中に住んでみてわかったのだけれど、この老いた木はね、ろまんてぃすとで紳士なのよ。わたしは、子供の頃からこの木が好きだったし、こんな体になってその中に入ってみたら、すごく居心地よくてね。意外とふかふかなの。でも、もう年をとって疲れているから、わたしが出ていくときは、完全に引退するみたい」
そう言うと、おくにさんは、すぅっと吸い込まれるように、オオモミジの中へと体を寄せていった。
おれたちは、彼女が向けている視線の先が気になり、後ろを向いた。
オオモミジから十メートルほど離れたところに、山田源作の後ろ姿があった。
その姿は、置きものの彫像のように、ぴくりともしそうになかった。
奴の背中を――おくにさんは、溢れるなにかを湛えた、なんともいえない目で見つめていたな。
でも、彼女の次のアクションは実にあっさりとしたものだった。
「またね」
おれたちに向かってそう言うと、おくにさんは妻にウインクをし、おれには会釈して、そのままオオモミジの中に帰っていっちまった。
おれたちもまた、彼女に向かって深く腰を折っていた。
あの馬鹿な侍は、相変わらず前を向いたまま、少し首をふると、そのまま姿を消していったよ。
未だに、おくにさんを困らせていることにも気づかずな。
それから、おれたちはその年の夏にこのロッジを建てて、おまえさんがしてきたような仕事を、十年のうち一年のペースでこなしてきたわけさ。
にしても、あの侍は相変わらずだな。
ときどき、姿を現しては話しかけてきたが、言っていることがちっとも変わってない。
香苗は――
あいつは、この仕事に正しい情熱を持っていたよ。
面倒くさがりなおれとは違って、きちんとお客の話を聞いて、アドバイスを送っていたし、いつも彼らのことを考えていた。
あの侍のことも心配してたな。
おれは、放っとけと言っていたがね。
いずれにせよ、おくにさんのかくれんぼを邪魔するわけにはいかんだろ?
しかしな、あれだ、人間てな、なにかを失くしてから気づくってことが多いな。
くだらない言い合いがつづいて、おれと香苗はうまくいかなくなっちまった。
結局、あいつがいなくなってからは、保育園を閉鎖しちまったよ。
*
「――忘れられないって、どういうことでしょう」
夜の、真摯な風を感じながら、ゴロタは〈道〉を思い浮かべていた。
でこぼこだった道、まっすぐだった道、カーブの激しい道、海風に吹かれる道、赤茶けた道、走ると痛みを感じる道。
そのどこにも、誰かがいて、そこにしかない景色があり、そこを通るたびに少なくはない犠牲があった気がする。
どうでもよかった気もするし、心に留めておくべきだった気もする。
「想いが、明日になることだ」
老人は、そう言った。
特に、感想はない。
そういうものなのだろう。
ゴロタとタケ爺はロッジに寝袋を敷いて眠り、朝になるとコーヒーを一杯飲み、森をふらふらと歩いた。
帰宅がてらの散歩だ。
ゴロタはロッジをふり返った。
しばらくは、このロッジに来ることはないだろう。
次の夏には、バーベキュー会場にするかもしれないが。
タケ爺なら、喜んで了解してくれるはずだ。
小鳥がさえずり、けもの道の脇にある岩がいつもの静寂さで佇んでいた。
スギやヒノキといったノッポたちが森の指揮官となり、その足元では、イヌビワやクロモジといった小兵が、この森に与えられた血脈のような役目を懸命にこなしていた。
彼ら小兵が集う一角の先を曲がると――
ゴロタと老人は、立ち尽くした。
オオモミジが、死んでいた。
根元から三メートルほどの所から朽ち果て、大きな体が西に向かって草地に横たえている。
近づくと、大部分の葉が抜け落ち、木肌は深い暗灰色に覆われていた。
二人とも、彼の遺骸に手を触れた。
下から上までを見る。
これほどの巨体が倒れたというのに、あのロッジまで音が聞こえなかったのが不思議だった。
「安らかに眠っているな」
ゆったりとした風にのるような口調で、タケ爺はそう言った。
ゴロタは再び、この大先輩の体を眺めた。
彼は、その下にある土とよく馴染んでいた。
土は、敬意をもって彼を迎え入れたのだ。
「そうですね……」
折れた部分の断面から、甘く芳しい香りがした。
白檀の香りだ。
タケ爺の体が震えていた。
「よかったなあ」
ゴロタはタケ爺の肩をそっと、さすった。
老人は、目頭をおさえ、涙をこらえていた。
けれども、彼の感情は土に吸い寄せられるように、ぽたぽたと重力に庇護されていった。
――かくれんぼは終わりだな。
ゴロタは、少しだけ笑った。
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