第2話 タケ爺の語りは

 ロッキンチェアーに揺られ、夏の夜の風にさらされながら、ゴロタはタケ爺と一服している。

 ゴロタは、この森が初めて無防備な所に見えた。


 となりにいるじいさんは、ふふう、と鼻息をもらし、煙を吐き出している。

 濃厚な白煙はすぐには広がらず、彼の顔の前で悠長なもやとなっていた。


「おれに、手紙を持ってきたんだろ」


 語りかけるかのような口調で、タケ爺はそう言った。

 突然のわりには、緩い速度で蹴られたボール。

 どう受け止めたものか、ゴロタは考える。

 が、面倒なのでまっすぐに弾くことにした。


「そうです」


 タケ爺はうなずき、返ってきたボールを足元でいじくることなく、あっさりと空中に上げてみせた。


「あの引き出しにあったのは、別れた妻への手紙でな。結局、渡せなかったが」


 空に弧を描くこともなく地面に落ち、ポーンとリバウンドするボール――。

 場外にいくのか、それともどこかで止まるのか、行方はわからない。

 いずれにせよ、パスをつなげなきゃ。


「よくわかりましたね、おれがこの手紙を持ってくるって」


 ゴロタはポーチから一通の手紙を抜き取り、タケ爺に手渡した。


「これは、あなたの手紙です」


老人はふんと笑い、開いているのか閉じているのかわからない目をした。


「勘がいいのは、おまえだけじゃない」


 ゴロタが持っている携帯灰皿にタバコを入れると、タケ爺はその手紙を親指で撫で、やがて、いつもの飄々とした調子で語り出した――。


                 *

 

 おれと香苗は――おっと、妻の名前は香苗と言ってな。

 なかなか気の強い女だった。

 でも、優しくてよく気の回るやつだった。

 あいつは、保母さんをやっててな。

 今じゃ、保育士っていうんだろ?

 まあ、個人的には保母さんっていう呼び名に百票入れたいがね。


 出会いは単純なものだ。

 香苗が勤める保育園は、昔田家が代々保有している土地にあってな。

 ああ、やっぱり勘がいいじゃないか。

 そうだ、あの家の敷地に、その保育園はあったんだ。

 もう今は、じじいとばばあの下着が干してあるような庭になっちまったがな。

 で、そんな昔田家のドラ息子だったおれは、その保育園で働いていた香苗に一目で惚れてな。

 つき合うまでには三十発くらい殴られたが、まあ、なんとか気持ちってやつが通じてな。

 ようやく、あいつがおれのとなりを居場所にしてくれた頃には、最初に頬を腫らしてから、季節を三つばかりまたいでたよ。

 子供は授からなかったが、結婚生活は楽しかった。


 そう、本当に、楽しかったんだぜ――


 あいつは当時の女にしては酒が強くてよ。

 休みの日は、ブランデーをかっくらいながら子供たちのために絵を描いていたよ。

 おれはおれで、バイクにまたがっては外に出かけてばかりだった。

 二人とも、やっていること、好きなことはバラバラだった。

 でもな、おれもあいつも、帰る場所はいつもひとつだった。

 お互いの存在が帰るべきところだった。

 いつだって、どこにいたって、あいつがおれの中にいた。

 あいつもそうだったと思う……たぶん。

 勘違いだっていいだろ?


 夫婦ってのは不思議なものでな。

 いつの間にか、二人の間にはスペシャルなアンテナができるものなんだ。

 香苗はな、なにかを届けることに情熱を持っていた人だった。

 保育園の園長になっても、相変わらず保育園のガキのために絵を描いていたし、近所のガキにも紙芝居を読んで聞かせてたな。

 困った人がいれば、そいつのためになにかができる人だった。

 おれはさ、それがうらやましかったよ。

 いつも、自分のことばかりしてたからな。


 四十年前――


 そんなおれが、あいつと二人ではじめたことがあった。

 この森から手紙を届けることだ。

 ……まあ、待て待て。

 順に話そう。

 元々、昔田の家系は、郵送事業で身を起こした家系でな。

 それが、いつの間にか貿易事業になり、やがておれみたいなドラ息子が誕生するわけだが――。

 まあ、それはいいや。


 そんなうちの祖となったのは、ひとりの女性でな。

 幕末に生まれたひとで、激しい時代の中、懸命に生きた人だった。

 名を、という。

 ああ、おまえさんは知ってるんだよな。

 あの侍との縁で。

 なら、話は早い。

 妙な因果だよな、おれとおまえさんは、あの二人に縁があるってわけだ。

 お察しの通り、あの侍――山田源作とおくにさんの村は、この森の、ちょうどこのロッジの辺りにあってな。

 そいで、あのオオモミジの下で二人は愛を育んだってわけだ。


 だが、おまえさんも知っての通り、あんなことになっちまってな……。

 その後、おくにさんは、ずっと独り身だったということだ。

 六太という仲の良い幼なじみもいたが、一緒にはならなかったんだな。


 明治になって、平民苗字必称義務令へいみんみょうじひっしょうぎむれいという、国民が苗字を持つことを義務化した法ができてな。

 その際に、おくにさんは〈昔田〉という姓を自分で名乗ったんだ。

 彼女が生まれた村には、みんなで耕した大切な田があった。

 あの忌まわしい事件があって、そこにまつわる伝統は枯れてしまったが、昔のことを忘れないよう、彼女は自分の姓を昔田とすることに決めたんだ。

 それから、彼女は村に残り、そこで残った田を耕しながら生活していたんだが、やはり、自分たちの運命を変えたあの出来事を思うと胸が苦しくなったらしい。

 で、彼女はこう思ったんだ。


 ――こんな小さな村でも、すぐに助けを求められるような情報網がしっかりしていれば、少しでも多くの人が助かったかもしれない。

 それは、情報を伝えるだけじゃなく、大切なものを届けることにもつながるはず。

 それからというもの、おくにさんはがむしゃらに働きはじめたんだ。

 まず、彼女は近隣の村の有力者を説きにまわった。

 それから、ものや手紙や回覧状なんかを預かって届けたり、緊急時には村人に危急を知らせたり避難勧告を迅速にできるような中継場所を各村に設けたんだ。

 やがて、彼女の志に賛同した村の連中に、そうした仕事を請け負ってもらえるようになってな。

 避難勧告のようなものはもちろん無報酬だったんだけど、届ける仕事では、どんな依頼人であろうと依頼を引き受け、その人に見合う報酬を受け取るスタイルが斬新だったらしい。

 例えば、貧乏人だったら雑巾とか、金持ちだったらお金だったりな。

 時代が文明開化へ急転して資本主義に傾倒していく中、そういう各個人の事情に合わせた商売が受けたんだろうな。


 資金がたまると、彼女は馬車や船を購入し、どんどんと郵送網を広げていったんだ。

 まあ、お上の郵便制度には、いい目で見られなかったみたいだけどよ。

 やがて、その臨機応変なスタイルが外国の商館の目にも留まってな。

 そういった顧客の薦めに従って、彼女の会社は貿易業にも精を出すことになったんだが、その頃には社員数もかなりのものになっていたから、彼らの稼ぎぶちを増やすため、次第に、より儲かる貿易業が主になっていったんだ。


 だが、そういうのは、おくにさんの当初の意向とは、ずれていたんだろうな。

 彼女は、あくまでも個人と個人をつなげる仕事をしたがっていた。

 だから、会社から一線引いた後は、近所の子供に読み書きを教えたり、算数や道徳を教える私塾を開いたんだ。

 で、その私塾が時代と共に形を変え、香苗が働いていた保育園になったってわけだ。


 おくにさんは結局、山田源作と別れてからはずっと独身だったんだが、一人だけ養子をもらってな。

 その養子がおれの祖父ってわけだ。

 彼は会社を引き継いだが、当初の勢いを維持するので精一杯になってな。

 おれの親父、おれの代になっていくにつれ、業務規模は小さくなったよ。

 でも、それでいいとおれは思う。

 には、ほどほど以上ってのは向いてないからな。

 それでも、そうした先祖のおかげでああいうでかい家に住めてはいるがね。


 おくにさんはな、やっぱり、あのしょうもない侍、山田源作のことが忘れられなかったんだと思う。


 なんで、そんなに詳しいことまで話せるのかって?

 おれは……いや、おれと香苗はおくにさんに会ったことがあるんだよ。


                 *


 ロッキンチェアーの軋む音。

 ぎーこ、ぎーこと気ままなリズムを立てながら、語り手の老人は目の前の森に向けて目を細めている。

 ゴロタは「それで?」とも言わず、彼の横顔に視線を投げ、話のつづきをうながす。

 タケ爺は、目をこすり、将棋盤の上で歩をさすように、空中にゆっくりと指を置いた。

「受け継ぐっていうのは、尊いことだな。おれは、おくにさんと香苗、それからあの侍にそれを教えられた気がするよ」

 彼は、相変わらずの口調で、再び話を紡いでいった。

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