第四章 つづいていた道 第1話 長い一服

 門が開いていたのでそのまま入っていくと、庭の縁でトミさんが掃き掃除をしていた。


「どうもです。タケ爺はいますかね」


 トミさんは、東南アジアの民族衣装をひらひらとさせ、ヨーダのような目をうっすらと開けて、にやりと笑った。


「ほんとは、あたしを押し倒しにきたんだろ? この助平」


 ゴロタは力の限り苦笑する。

 フォースの導きは期待できないが、いちおう会話らしいものをつづけることにした。


「タケ爺、部屋にいるんすかね?」


「ああ、乳が張る」


(一体、この婆さんはどんな人生を送ってきたのだろう)


 がんものように顔をひしゃげてみせるゴロタ。

 トミさんは、ふんと下唇を突き出して、門の方を指さした。


「兄さんなら、ちょいと出かけてるよ」


 そういえば、トミさんはタケ爺の妹だったなと思い出す。

 まったく、変な兄妹だ。


「あの森に行ったよ。悲しみの森にね。もう暗くなるってのにね」


「じゃあ、行き違いってわけか」


 ゴロタは礼を言い、トミさんから懐中電灯を受け取ると、門の外へと踵を返した。

 そんなゴロタの後ろ姿に、トミさんがささやかな声を送ってきた。


「あんた、少しはいい男になったよ」


 ゴロタはふり向かず、舌をペロッと出す。


 ――ハードボイルドってやつは、自分にとっては、自分の滑稽さを見せびらかすためのジョークなのだ。それでいい、それが楽しいんだ。



 夏の湿気を含んだ風が、体を透き通ってゆく。

 グーグーと鳴る腹の音を聞きながら、ゴロタは階段を上っていく。

 兄弟だろうか。

 もう、陽は落ちているというのに、塾帰りの子供が二人、じゃんけん遊びをしながら階段を弾むように駆け下りていった。

 彼らがつくった、彼らだけの世界での滑走を、ゴロタはうらやましそうに見ながら、石段を踏みしめた。

 今更になって、段差が大きいことに気づく。


 そうだった。


 いつだって、自分は自由だった。

 想像の任せるまま、野原を駆け回り、棒切れで侍になり、あるいはジャングルジムの王者となり、小さな足で空を飛んだ。

 そこには、いつも、自分を湧き立たせる神聖な感覚があった。


 今は――


 やはり、自由だと思う。


 まだを失くしたわけじゃない。

 生きる年月を重ねるにつれ、外部から身を守るフィルターが厚くなっただけなのだ。

 なぜなら、その奥にある――子供の頃には剥きだしだった領域は、あまりに無謀で、あまりに美しいから。

 風を、雨を、陽を受ける日々。

 誰もが、平等な世界に生き、なにかを守れる力を手にしてゆくのだろう。


 夏の夜が、すべての虫の音をありのままにさせている。

 悲しみの森を前にすると、ゴロタは少し腹をさすった。

 夜の森はこの上なく鬱蒼としており、辺りの風を呑み込んでいるように見えた。

 ゴロタは懐中電灯を点け、ほんのりと湿った空気を分け入るように突っ切っていった。


 狭い範囲で照らされた枝葉、土は着々と眠りへの準備を整え、辺りを囲む黒い木々が彼らだけの夜の語らいをしている。

 朝の光の下、ここを通るときとは異なる、重く、素っ気ない空間に、さすがのゴロタも恐れを感じた。

 忍びよる不安を吹き払うかのように、ゴロタは足を早めていく。

 いつもの道のりの先に、窓から漏れる光が見えた。

 夜の訪問者にとって、そんな光ほど心を慰めてくれるものはない。


 ゴロタは体を浮かせるようにバルコニーへと上がり、トントンと扉を開いた。

 ガチャッ。

 扉が少しだけ開いた。

 が、その向こうにあるはずの顔と手が見えない。

 そろりとドアノブに手をやり、ゴロタはゆっくりと扉を押した。

 いつもの空間、いつもの照明――そして、右のこめかみに感じる違和感。

 反射的に、ゴロタは両手を頭の上に上げていた。


「なんだ、ゴロタか」


 こめかみから消える感触。

 目を右方向に回すと、タケ爺が視界に映った。

 日焼けした手に猟銃が携えられている。


「おれじゃなかったら、どうするつもりだったんす?」


 黒く逞しい武器が妙に生々しい。

 以前、「おれは狩猟免許を持っている」とタケ爺が話していたのをゴロタは思い出す。


「おまえだからこそ、指に力が入りそうだった」


 ペロッと舌を出すタケ爺。

 やれやれと、ゴロタはタバコを取り出す。

 さすがに、肝を冷やした。

 タケ爺は猟銃を脇に置き、いつものいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「よお、おれも一服したいんだが」


「どうぞ」


 一本差しだすと、タケ爺は顎で外の方を示した。


「バルコニーで一服しようや」

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