第13話 歩みと別れ

 ぼんやり――。


 ゴロタはなにもせず、見慣れたデスクを前に、タバコを吸っては灰皿に押しつける作業を繰り返していた。

 デスクの上に乗っているファイルには、もう手を加える必要はなかった。

 今日も、依頼客は来そうにない。


 あと三日――。

 それで、ここの仕事は終わる。

 こんな森の中で、出会ってきた数々の想い。

 いったい、世の中にはどれほどの人間が、届けられずにいる想いを抱えているのだろう。


 夏とはいえ、森の中は時として肌寒い。

 ゴロタは薄いカーディガンを羽織ると、ふらりと外へ出ていった。

 辺りの針葉樹は緑を深くし、淡い霧が一帯を覆っている。

 なにかを察知したかのように、ぴくり、とゴロタの眉が動いた。



 そういえば、いつの間にか、オオモミジの前まで来ている。

 ゴロタは、幹のふもとにそろりと目を向けた。

 すると、


「おっす、元気か」


 そこには、あの侍――

 山田源作が立っていた。

 もう、ゴロタは驚いたりはしない。


「ずいぶん、軽い登場だな」


「おぬしの言い方を真似てみたのだ」


「なんの用だい」


 少し、億劫になっている。


「これで、別れになるかもしれぬ」


「え」


「おくにに、会いにゆく。待っているだけじゃ、遠くを見ているだけじゃ駄目だと気づいたのだ」


 なんだよ、いきなり。

 ゴロタは、まじまじと源作の顔を見た。


「場所はわかんのかよ」


 場所――それが、彼の世界にとってなにを指すのか、ゴロタにはわからない。


「なんとなくな……。いつか、おぬしがおれに向かって、『遠くを見ようとしすぎてる』と言ったろう。それがひっかかっててな。おれは、自分の足元を、よく見ていなかった気がする」


「ていうと?」ゴロタは首をひねった。


「今までは、このオオモミジの木の下で、遠くを見ていただけだった。あいつの姿が向こうからやってくるものと信じてな。だが、実際は……に、おくにはいるのかもしれぬ」


「つまり、あんたが大好きなおくにさんは、かくれんぼをしてるってこと? ほんとにそうなら、気のなげえ遊びだなあ……」


 ふふ、と源作は微かに口端を上げた。


「そうじゃなかったとしても、おぬしには礼を言う」


「なんにも、しちゃねえよ」


 源作は下を向いて、自分に話しかけるような口調で言った。


「おれはただ待つことで……どこかから逃げていたのかもしれぬ。本当は気づいていたのに、それを見ていないふりをしていたのかもしれぬ」


 森の香りは熟成しきっていた。

 地面にはびこる影も、すさすさと鳴る葉の音も、周りを包むすべてのものが、自分よりも……自分たちよりも、この世界を知っているような気がした。


「きっと、会えるよ。あんたのは、ヤワじゃない。だから、会える」


 微笑み、ゆっくりと顎をひく源作。

 鞘に置いた手から髷の先まで、その姿勢には一本の筋が通っているようだった。


「かたじけない」


 ゴロタは源作と向き合い、同時に、深く一礼をした。


「達者でな」


「おぬしもな」


 源作はオオモミジの前に腰を下ろし、座禅を組みはじめた。

 そのまま、白い雲がかすれていくように、彼の姿がぼんやりとなっていく。

 薄れてゆく霞みの中で、こだまのような声が響いた。


「おぬしと今もっとも近い者。その者の痛みも察してやれ」


 どういうことだい――とは、ゴロタは思わなかった。

 不思議と、その人物の顔が浮かんでいた。

 山田源作の姿が、雄大なるオオモミジの中へと、染み入っていくように消えていく。


 彼は去り、ゴロタはぽつんと佇んでいた。



 ロッジに戻り、ゴロタはココアを飲んだ。

 ささやかな喜びが、頬の中に広がっていく。

 むせた。

 床にこぼれた液体を拭おうと、かかむ。

 シンクに行くのも億劫なので、目の前にある最下段の引き出しを開けた。

 入ってあるティッシュを箱ごと取り出すと、ゴロタは少しだけ考え――奥にある便箋に手を伸ばした。

 以前から、その存在には気づいていたが、手にしたことはなかった。

 今は……勘が、それを手にすべきだということを告げている。

 それは、森の郵便屋として目的地へ行くときの、あの不思議で確固とした感覚に似ていた。

 茶色い便箋は古く、埃をかぶっている。

 その埃をティッシュで払い、ゴロタは達筆な字を確かめた。

 差出人は――昔田武造。



 茜色に染まった空の下、ゴロタは坂道を下りながら、近くの家から漂っているカレーのにおいをかいでいた。

 あの手紙の封は、まだ開けていない。

 当然といえば、当然だが。

 ――そう、においなんだ。

 そのにおいを感じたのは、きっと、この仕事をしていたからかもしれない。

 いずれにせよ、この手紙を届けよう。

 ゴロタは勝手にそう決めていた。

 自動販売機の立つ角を曲がると、ゴロタの足は、つんのめるように止まった。


「やあ、美香――」


「ゴロタくん」


 美香は薄いピンクのワンピースに、麻で編んだバッグを手にしている。

 そんないかにも夏らしい装いが、彼女の快活な性格と、清流のように健やかな雰囲気によく合っていた。

 美香は、驚きながらも、ほっと一息ついたような表情をしている。

 彼女はゴロタに会いに来たのだ。


「あの森まで行こうとしてたんだけど、ここで会えてよかった」


 ゴロタの胸がうずく。


「ゴロタくん、急いでる?」


「ちょいと、用はあるけどな。まあ、急いでるわけじゃねえ。大丈夫だ、時間はある」


「そう」


 美香は――ゴロタが好きな、あの遠くを見るような目で――微笑んだ。


 もう、自分の気持ちは、彼女には伝えている。

 それでも、彼女はこうしてやって来て、きちんと挨拶をしようとしている。

 そんでもって、自分は……やっぱり動揺している。


 そのもどかしさが何だかおかしくて、ゴロタは思わず笑い声をあげた。


「どうしたの?」


「いや、なに。おれ、馬鹿だなあって思って」


 彼女は安心したように、ほんのりと笑った。


「知ってるよ」


「そうかい」


 ささやかな安堵感が、お互いの間に広がってゆく。

 ゴロタにとっては、悲しみをも含んだ笑み。

 いや、それは……もしかしたら、美香もそうなのかもしれない。

 彼女は、恋とは違う形で自分を慕ってくれていたのだ。


「ありがとうね、ゴロタくん。直接、お礼が言いたくて」


「そうかい」


「マサくん――梅田昌行くんね、あたしに会いに来てくれたの。それで、あたし、向こうに……河口湖に引っ越すことにしたの。なんとか、向こうで仕事を見つけるつもり」


「そうか」


 一緒に住むってことなのか、結婚するってことなのか、それはどっちでもいい。

 いずれにせよ、二人は一緒になるのだ。

 二人で決めた道を歩いてゆくのだ。


「あいつに、梅田に会ったらさ、伝えといてくれよ。走るとき、腕をもっと振れってな」


「あっ。それ、彼から聞いた。一緒に走ったんだよね」


 くつくつと、こみ上げる二人の声。

 彼の話をしているのに、いつも二人で話していたときのような雰囲気になっている。

 自分を抉ってきた、あの時、あの場所、それらの上に立っていた季節のことが、馬鹿らしく思えた。


「でもさ、マサくんが青タンこさえていたのにはびっくりしたわ。ゴロタ流の鉄拳制裁ってやつなの?」


 これには、美香は笑顔半分、しかめっ面半分といった風だ。


「制裁を喰らったのは、お互いさまさ」


 そう、と言って目を細める彼女。


 さようなら。


 そのときが、きたのだ――。

 ゴロタは手をふわりと上げ、ひとつ、まばたきをした。


「じゃあな。元気でいろよ」


 こくりとうなずき、柔らかい笑みで彼女は応える。


「ゴロタくんも」


 二人は、それぞれの場所へと向かってゆく。

 「またね」は言わなかった。


 さあ、歩こう。

 タケ爺の家につづく道を、ゴロタはゆっくりと踏んでいった。

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