第11話 時の流れ

 由美の作るビーフシチューのにおいをかぎながら、お互いにシップを貼り合う。

 ゴロタと目が合うと、梅田は照れくさそうに笑った。

 木板で野菜と肉を切り、簡易コンロで作ったシチューを、ゴロタは満面の笑みで頬張る。

 自分の妹ながら、料理のセンスがよい。

 梅田は切った口の中がしみるのか、舌で具材を転がすように食べていた。

 それでも、彼は何度もスプーンを上下に動かしている。


「由美さんは、料理がうまいんだね。すごくおいしいよ」


「そうだろ。こいつ、料理人になれるかもな」


は、お兄ちゃんには普段ふるってないよ」


 まったく可愛くない妹だ、とばかりにゴロタは顔をしかめる。

 愉快そうに喉を鳴らす梅田。

 口の中がしみるせいか、咳き込んでしまっていた。


「由美さんは、お兄さんのことが好きなんだね」


「はい?」と、顔を仁王のようにしかめる由美。

 おいおい、そこまで力を込めることないだろうと、ゴロタはいじけたくなる。


「梅田さん、殴られて、今は頭が混乱してるんですよ」


「なんとなくさ、そう思ったんだよ。おれは兄弟がいないから、二人を見てるとうらやましくなってくる」


「よせよ。ろくなもんじゃねえぜ」


「そりゃ、あたしのセリフです!」


 今度は、由美が咳き込みそうだ。

 梅田はからからと声を立てている。


「好きとか、尊敬してるとかってさ、なかなか態度では素直に表せないもんだよ。特に、その関係が近いほどね」


 ゴロタは由美とにらみ合っている。

 梅田はなおも兄妹にとっては余計なおしゃべりをつづけた。


「でもさ、たまには素直に表現することも大事だよ。おれなんかが言うのもなんだけどさ」


 うむ、と唇をひん曲げるゴロタ。

 妹はといえば、舌を出している。

 そんな不届き者からは目を逸らし、ゴロタは梅田に顔を向けた。


「あんたにも、その表現ってやつが必要なんじゃないか?」


 スプーンを繰る腕をとめる梅田。


 ――もう、わかってるだろ。だから、そんな顔はするなよ。あんたには、があるんだぜ。


 唾を呑み込み、ゴロタはもう一度口を開いた。


「美香に、会いにいってやれよ」


 梅田の瞳が揺れた。

 きっと、自分もそうだろう。


「会いに……行かねえとよ。あいつ、待ってるから。ずっと、ずっと、あいつはあんたのこと、待ってたから」


 天井の梁に、染みがついている。

 ゴロタは顔を上げ、その一点をじっと見ていた。


(美香。こいつは、たしかにいい奴だ)


 込み上げる感情、連動する涙腺。

 抑えようと、瞼の裏に力を入れる。


 やがて、視界の下端に、青年の影がそっと頷いているのが映った。



 車のドアを閉め、エンジンをかける。

 と同時に、ウィンドウを開けてタバコの煙を吐き出す。

 それが、車を出発させる前のゴロタの儀式だ。

 昨夜は近くのホテルで過ごし、朝になってから梅田を迎えに行った。


 チェックのYシャツにソフトデニム。

 彼は、昨日の印象そのままに爽やかな恰好とそれに似つかわしい態度をもって二人を迎えてくれた。


「出発しんこお!」


 インコみたいな声で、由美がはしゃぎだす。

 兄妹でぺちゃくちゃとくだらないことを話し、それに巻き込まれていく梅田青年。

 由美が梅田のことを聞きはじめると、彼は丁寧に答えてくれた。

 出身は秩父で、昔から山の中にいることが好きだったこと。

 血液型はA型で、好きな食べものは寿司であること。

 好きなスポーツ選手は、意外にもマイク・タイソンであること。

 ゴロタはその話の断片が、美香が彼について話していたことと重なっていることを思い出していた。

 その話を彼女から聞いているときが辛かったことも。


 だが、どういった運命のいたずらか、そうさせていた主を、その話し手の元に自分は送り届けようとしている。


 昼食を終えて再び出発すると、梅田は視線をウィンドウの外に向け、ぽつぽつと口を開くだけになっていった。

 ゴロタと由美も口数が少なくなっている。

 

 ――こいつが美香の元に行くこと。それは、美香が望んでいること。この車は、本当に望むべきことを運んでいる。


 自然と、ハンドルを握るゴロタの手は慎重になっていた。


「あっ、虹だ」


 ふと、由美が言った。

 どんよりとした空の一角に、うっすらとした蛍光色が背筋を伸ばしている。

 一様に、目をみはる一同。

 空の気まぐれな恵みも嬉しいが、妹がそれに気づき、この狭い空間に色を与えてくれたことに、ゴロタはささやかな喜びを感じていた。



 町田インターから一般道に降り、そのまま横浜に向かっていると、由美が不意に告げてきた。


「あたし、そろそろ降りるよ。ちょっと、用があるんだ」


 そうか、と頷き、ゴロタは関内駅の近くまで車を転がして、ロータリーの脇で由美を降ろした。


「お兄ちゃん、ありがとうね」


 珍しく殊勝な言葉を告げ、梅田に別れの挨拶をすると、由美は駅の改札へと歩いていった。


「本当に、いい妹さんだね」


「端から見ればな」


 はは、と喉を鳴らす梅田。

 それから、湿布の貼ってある口元を撫で、噛みしめるように言った。


「昨日、今日のこと、おれは忘れないよ」


「色々と、痛かったな」


 からかうような口調で肩を揺らしながらも、きっとおれもそうだろうな――とゴロタは思った。

 道は、つづいてゆく。


 保土ヶ谷駅の辺りまで来ると、梅田が深く息を吸った。


「ありがとう。そこら辺で降ろしてもらっていいかい」


「そうか。今日は、どこに泊まってくんだ?」


「叔父の家が、保土ヶ谷駅の近くにあってね。ひとまず、そこに行くよ」


 道路端にレクサスを停め、ゴロタも降りた。

 梅田はほとんど手ぶらだ。

 そんな姿が、いかにもこの青年らしい気がした。


「なあ」


 久しぶりに都会の空気を吸っている梅田に、ゴロタは笑いかける。


「美香には、いつ会いにいくんだ?」


 青年は、照れくさそうに頬をかいた。


「ひとまず、叔父さんに挨拶しなきゃならないから、明日、彼女のマンションの前に行くよ。おれは携帯持ってないし、そこで彼女を待っていようと思う」


「不審者に間違えられないようにな。まあ、そうなったら、いちおう差し入れくらいは持ってってやるよ」


「そりゃどうも」


「ゴロタさん、本当にありがとう」


 若き陶芸家の、五月晴れを思わせる笑み。


「君は、運べないものを運びきった。忘れないよ」


「……忘れてほしいよ」


 大ぶりに手をふるゴロタ。

 ちょこんと互いの目が合うと、二人は大げさに笑った。


 忘れてほしい――それは、ゴロタにしてみれば半ば本気だった。


「じゃあ、元気でな」


「うん、ゴロタさんも」


 軽快な足取りで、梅田は駅へと向かっていく。

 彼は一度だけふり返り、手をふってきた。

 小さく手を上げるゴロタ。

 駅前の雑踏に彼が呑み込まれるまで、ゴロタはその場に立っていた。



 タケ爺の家に行ったが、彼は不在だった。

 なので、レクサスを車庫に入れ、トミに車のキーを渡し、ゴロタは街をぶらついた。

 ひどく疲れていた。

 見慣れた街の風景もどことなくかすれて見える。

 大通りに出ると、健康ランドがあったことに気づく。

 ゴロタは漂泊者のような足取りで、その憩いの施設に吸い込まれていった。

 屋上露天風呂に行き、五分ほどお湯に身を浸すと、ほとりにあるビーチチェアに体を乗せ、目を閉じた。

 すぐに、暗闇に沈み込むような、深い所へと意識が遠のいていった。


 ――目覚めると、すでに空は薄い赤色に包まれていた。


 ゴロタの名に恥じない眠りっぷりに、自嘲気味に口の端を上げる。

 軽くシャワーを浴び、健康ランドを出ると、家路を辿っていった。

 空を見る。

 夜のはじまりが忍び寄っていた。

 路面をもの寂しく照らす街灯の明かりを避けるように、歩くスピードを速めてゆく。

 どこかの家の二階から、ジェームス・ブラントの〈ユア・ビューティフル〉が流れていた。

 心の琴線にそっと触れていくような優しいメロディ。

 口ずさむと、少しだけ歩調がゆっくりになっていった。


 が、自宅マンションにつづく道を曲がると、ゴロタは歌を止めた。

 エントランスの脇で、何やら男女が口論している。


 女は――由美だった。

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