第10話 由美の視点~青空~
特に戸惑うそぶりはみせず、梅田はうなずき、ゴロタ兄の後をついていった。
まるで、先輩に「飲みに行こうぜ」と誘われて足並みを揃える後輩のようだ。
いずれにせよ、いったん外の空気を吸うことは悪い提案じゃない。
由美も彼らにつづいて腰を上げた。
陽光が鮮やかで、通り抜けてゆく風が気持ちいい。
木々はそんな風にうながされて、嬉しそうに揺れていた。
ゴロタ兄は、工房の前に広がる、二十坪ほどの平地の真ん中辺りに立ち止まると、「飲みに行くべ」というような調子で声を発した。
「あんた、殴り合いの喧嘩したことはあるか?」
「殴り合い? うーん、子供の頃にはあるけど」
それがどうしたんだい? と梅田の顔には書いてある。
当然だ。
「じゃあ、やってみるか。おれと」
さすがに、今日一番の驚きをみせる梅田。
一体、この兄は何を言い出しているのか。
理解しようとも思わないが、当然、由美は非難の目を向けた。
「お兄ちゃん、正気なの?」
うん、と軽くうなずく兄。
つづいて、兄は手で由美を制する仕草をした。
何を考えているのかはわからないが、その手が発する威圧感に、由美は次の言葉を呑み込んでいた。
「ゴロタさん、なに言ってるんだい?」
「かけっこで負けた分、取り返してみろよ」
のそりのそりと、梅田に近づくゴロタ兄。
そのただならぬ様子に、唾を呑んで立ち尽くす梅田。
太郎曰く、ゴロタは自分から喧嘩を売ることは滅多になかったらしい。
妹から見ても、兄はやたらに腕っぷしを見せるタイプではなかった。
(まさか、青春ドラマみたいな展開にはなんないよね)
が……。
「歯を食いしばるんだぞう」と、兄が一声かけると――
ゴッ! と鈍い音がした。
梅田は地面に突っ伏し、頬をおさえていた。
あんぐりと口を開ける由美。
ふふん、と鼻息を大きく吐き出す兄。
「ちょっと、バカ兄貴! なにしてんの!」
「まあ、待てよ。向こうも、やる気出したみたい」
ハッ、と目をやると、梅田は手の甲で口端を拭いつつ、立ち上がっていた。
(梅田さんも、青春ドラマの観すぎなのかしら……)
なんだか、由美は疲れてきていた。
梅田は、怯むどころか、その涼やかな眼をまっすぐに兄に向けている。
「ゴロタ君は、理不尽だね」
「知ってるよ。だから、かかってこい」
「陶芸ってのはね、ある意味、理不尽なものを作りだすものなんだ。だから……今の状況は、勉強になるかもね」
そう言うと、梅田は拳を振り上げ、兄に向かっていった。
やはり、この夢見る陶芸家はろくに、喧嘩などはしたことがないらしい。
駄々っ子が親にポカスカやるような、様になっていないフォームだ。
でも――
兄の頬に、梅田の拳がめり込んでいた。
思わず、目をつぶる由美。
本当に当たったのか、あえて受けたのかは、由美にはわからない。
ただ、早くこの時間が終わればいいのに、と願う。
もう、自分には止められない。
当たった拳をまじまじと眺め、その初めてに近い感触を確かめる梅田。
ゴロタ兄は、その調子だぜ、とばかりにニッ、と笑ってみせる。
「ほら、もう一発こいよ。おまえのへっぴりパンチをペロペロしてやる」
ハハ、と威勢よく笑い、拳をつくる梅田。
そのままさっきと同じようにエイヤと振りかぶり、兄の頬を打った。
バチン! と軽快な音が鳴る。
「こうやるんだよ」
打ち返す兄。
今度は鈍い音が鳴る。
頬をおさえ、それに応じて拳を振るう梅田。
これも当たる。
どうやら、兄はわざと受けているらしい。
そこまではわかったが、由美は二人に罵声を浴びせたい気持ちを抑えながら、両手の指の隙間から、理解不能の光景を見ていた。
兄が殴る。
梅田が殴る。
交互に、お互いの顔が腫れていく。
やがて、この慣れないコミュニケーションに精を切らした梅田が、あお向けになって倒れこんだ。
つづいて、彼の横に寝転がり、同じ恰好で空を見上げる兄。
――一体、何を見せられてるんだろう。
由美はB級ドラマを観るときのような、というかそのものの目つきを男二人に向け、ついでに顔をしかめる。
「あああああ!」
梅田が突然、叫んだ。
声が途切れると、すっきりとした表情で彼は傷だらけの口を開いた。
「ゴロタさん」
「なんでえ」
「ありがとう」
「あん?」
「よくわかんないけど、そんな気分なんだ」
よくわからないのは、由美も一緒だ。
ゴロタ兄は、あお向けのままタバコに火をつけ、その煙の行く先を見守っていた。
「ゴロタさん、ずいぶんと手加減してくれてたのに、おれはこんなもんなんだな」
梅田は笑い、青タンが貼りついた顔をさすっていた。
ゴロタ兄はタバコをふかしている。
「十分さ」
「すごく痛いんだ」
梅田は、なおも愉快そうだ。
「でも、清々しい気分だ」
「青春ドラマの完成だな」
「そういうドラマ、おれが体験するとは思わなかったよ」
極めて馬鹿くさい光景だった。
由美は、むずがゆいような、恥ずかしいような、わけのわからない気分になっていた。
ただ――彼らの眼は、信じられないほど活き活きとしていた。
梅田という青年は……彼なりに、漠然とした、それでいて心が定期的に疼く痛みに苦しんでいたのだ。
それに打ち克つ術を知りはしなかった。
兄は、自分の痛みに気づいてはいた。
でも、今まではそこから目を逸らすことで凌いできた。
その痛みに対抗するには、彼が得意とする闘いではどうにもならなかった。
けれども、今、ようやく……その得意とする形で、心の奥にあるものを吐き出せだのだろう。
由美は、空を見やった。
視界には、太陽ににじみ寄る雲が広がっている。
風船、鯛、マシュマロ、舟。
色々な形をした空の冒険者たちが、風に乗って航路をとっていた。
*
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