第5話 告白

「こうやって一緒に歩くのも、なんか久しぶりだよね」


「そうだな」


 どこかで、一杯やってくか。

 なんてことを言えるわけでも、そういう雰囲気でもない。


 五時半を過ぎても青い七月の空の下、ゴロタは、美香の小さな歩幅に合わせて坂道を下ってゆく。

 タケ爺と由美にうながされ、彼女を送ることになったのだ。

 その二人は、残業と称してロッジに残っていた。

 余計な気を使いやがる、と思うが、二人には感謝すべきだろう。


 雲の流れが早く、夏を担ぐツクツクボウシたちの祭り囃子が、街の影さえも明るいものにしていた。


「ゴロタ君のね、今やってる仕事って素敵だと思うよ」


 肩ごしに伝わる彼女の髪のにおい。

 たおやかなにおいを通し、胸に一陣の風が吹く。


「そうかな」


「不思議だよね。あたし、考えてみると変な行動してるよね」


「ようこそ、変な世界へ」


 なにそれ、といつものように大口を開けて笑う彼女。


 そうだな。

 おまえは、そうあるべきだ。

 だから、おれはおまえといて楽しかったんだ。


「届けられないものを届ける。それって、すごいことだと思う」


「ある木の力と、その力をおれに伝達している森の番人――タケ爺のおかげだよ。けど、もうすぐそれも終わる。十年のうち一年だけ、あの森は、おまえみたいな想い人の願いを助けてくれるらしい。んで、おれがあそこで働いてからもうすぐ一年経つんだ」


「そっか……」


 彼女は元々理解が早いし、げんに、

 すでに、色々なものを受け入れているのだろう。


「ともかくさ、なんだかんだ言って、ゴロタ君が責任持って仕事してるのが伝わってくるよ。たくさんの人たちが、感謝してるんじゃないかな」


「うーん、どうだろ」


「相変わらず、素直じゃないですのう」


「おれは、なにかの流れに乗ってやってるだけだよ」


 本当だった。

 自分の仕事は、あの森にいるオオモミジありきのもので、タケ爺がいなきゃ成り立たないものだ。

 おまけに、もうじき終わりが待っている。


 とは、ゴロタには言えなかったし、思えなかった。


 いずれにせよ。

 どこからか脱落してしまった自分のケツを、まだ蹴飛ばせてはいない。


「今はね、胸を張って言える言葉さえ見当たらないんだ」


 ゴロタが頭をかきながらそう言うと、美香は言葉を返したりはせず、静かに微笑んだ。


 正面玄関がサルスベリで彩られた役所の前を通り、材木屋や民家で入り組んだ路地に入ってゆく。

 以前、一度だけゴロタは彼女を送ったことがあった。

 たしか、美香のマンションはあと少しのところにあるはずだ、とゴロタは思い返す。


 マンションの前に着くと、彼女は立ち止まり、大きくのびをした。


「本当に、ありがとう。こんなこと頼むのが、ゴロタ君でよかった」


 そんなこと言うなよ――。


 その声、そのスタイル、その髪、その笑顔。


 かき乱れる心を胸の隅に置こうとした。

 けど、うまくいかなかった。


「おれでよかったなんて。本当にそうなのか?」


 自分でもそうとわかるほど、声色がおかしかった。

 美香は、いたって真面目な顔だ。


「だって、信頼できるから」


「そう、か」


 唇をぎゅっとさせるゴロタ。

 わかってる。

 もう、わかってるんだ。

 その信頼の意味を。


 今、時間がやって来たのだ。


 そろそろ、自分も届けなければならない――。


「美香はさ、本当に好きなんだな。そいつのこと」


「うん。だからこそ、あの森に行けたんだもん」


 ――そりゃそうだ。


 ゴロタは目を閉じ、夏の風を吸い込んだ。

 まぶたを上げ、まっすぐに、美香を見る。


「美香。おれはな。おれは、おまえのことが好きだ。ずっと、好きだった」


 言った。

 ついに、言ってしまった。


「え」


 大きく眼を開き、美香は口をパクパクさせている。

 もう、ゴロタの心は言葉と一体になっていた。


「ずっと、言おうと思ってた。けど、だめだった。もう少し自分がになったら、ちゃんと伝えようと思ってたんだ」


 美香は頭を垂れ、手を下ろした。


「あたし……」


 ようやく、彼女の声が届いた。


「最低だよね。ごめん……」


「んなことねえよ」


「ほんとはね」


 胸に手をあて、彼女は深く息をついた。


「ほんとは、うっすらと、ゴロタ君の気持ちには気づいてた、と思う。だって、これだけ優しくしてくれるんだもん。なのに、あたしはごまかしてた……気がする」


 ゴロタは、すぐに言葉をかぶせた。


「おれが、はじめたことだ」


 自分の唇が震えていることはわかっている。

 でも、ゴロタはつづけた。


「おれがいて、おまえが笑ってくれる時間。それを失っちまうかもしれねえことに、おれは怯えていたんだ。でもよ」


 一歩、踏み出した。


「ケリをつけてえんだ。勝手だけどよ」


 そっと、美香の肩に手を置いた。

 こんなにも華奢だったのかと、ゴロタは自分の手の感覚を疑った。

 だが、彼女はたしかにそこにいる。

 そのまま、美香の眼を見る。

 彼女の瞳は潤み、ある種の光を帯びていた。

 その奥には、いつも自分が憧れていた、凛とした色が宿っている。


 ――それでいい。


 彼女は、無理矢理に微笑んだ。

 透明の玉がふたつ、両目に浮かび、頬を流れていった。


「ありがとう。そんなにも、勇気を出してくれて。本当に、嬉しいです――」


 美香は、目元に手をやった。


「ゴロタ君にはね、ゴロタ君の道があるよ。それは……あたしと行く道じゃない。あたしは、あの人と行く道を願ってる」


 彼女の背後、その遥か上には、ひつじ雲が広がっている。

 悪くない形だった。

 ゴロタは、ゆっくりとうなずいていた。

 笑っているのか、それとも無表情に近い顔をしているのか、自分ではわからなかった。


「あたしのためにする仕事……キャンセルしていいからね。自分で、なんとかするから」


「だめだ」反射的に、ゴロタは答えていた。

 意地なのか、誇りなのか。

 そのどちらでなくてもかまわない。

 ただ、目の前にいるこいつのためにできること。

 それを全うしなくちゃ、自分のケツを蹴飛ばせないのだ。


「この仕事はやる。やらせてくれ」


「なんで……」


「そうしてえんだよ」


「ごめん」


「あやまるなよ」


「でも」


「必ず、届けっから。それは、おまえが言ってた、おれの道のひとつなんだと思う。おまえが好きで、その気持ちを抱えたまま森の郵便屋をやって、今、ここにいる。ここまでの時間は、おまえがいたから経験できたものだった。だから、せめてなにかを返してえんだ」


 美香は、小さな手で小さな顔をおおい、肩を震わせた。

 その振動が手を伝って、ゴロタに届いてくる。

 少しだけ、ゴロタは指に力を込めた。


 そうしたまま、どれくらい経っただろう。


 やがて――美香は後ろ姿になった。


 ゴロタは手をぶらりとさせたまま、彼女の背中を見送っていた。

 一度だけ、彼女はふり返り、元気いっぱいに手をふってくれた。


 彼女の姿が見えなくなると、


「おれ、勝手だな」


 空を見上げ、誰に向けるでもなく、ゴロタはそうつぶやいていた。


 体をのばし、家路へと向かっていく。

 家に近づいても、見慣れた景色が目新しく感じられていた。

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