第6話 由美の視点~空の下でハンドルを~ 

                 *


 ロッジの玄関先に立ち、森のあちこちから飛んできた葉っぱをほうきで掃く。

 そういえば、こうしてほうきを持つなんて、いつ以来だろう。

 

 少し手をやすめ、由美は辺りを見まわした。

 黄緑色や濃い緑、様々な緑の色に目を留める。

 緑ひとつでも、たくさんの色があるのだ。


 昨日、彼氏の健太に電話で話したこと――。


 思い返すと、胸に重しがのっかった。

 ふぅー、と息を吐き、由美は掃き掃除をつづけた。


「メシにするか」


 兄のゴロタがバルコニーに顔を出してきた。

 今日は土曜日だ。

 会社は休みだが、由美はに顔を出していた。

 これからやることが、ここでの最初で最後の郵便仕事となるだろう。


「――あたしも手伝いたい」と言った時、タケ爺はともかく、この兄が首を横に振らなかったことは意外だった。

 由美の記憶の中では、兄についていこうとするとき、彼の嫌がる顔しか見てこなかったからだ。

 半ば心配、半ば好奇心で、また兄を追いかけてみた。

 すると、彼がいる今の道は、思いがけないことで満たされていた。

 それは、由美自身のこの先の道をも考えさせるものだった。


「そろそろ、行くか」


 贅沢な空間の中でのランチを終えると、ゴロタ兄はそう言った。

 もうそろそろ、森の外にタケ爺が来ているはずだ。

 仰々しい鍵で扉を閉め、ほうきを置き、兄と一緒にへ向かった。


 ――いよいよ、手紙を届けにいくのだ。美香さんの手紙を。


 森を出て、軒家に挟まれた狭い路地を通り、坂道を少し下ったところにある公園の前に、レクサスが停まっていた。

 タケ爺は運転席のドアに手をかけ、ぼんやりとタバコをふかしている。

 レイバンのサングラスが妙に似合っていた。


「夏もいいが、秋も待ち遠しいな。秋の夜長ってなあ、粋なもんだ。秋の朝とか昼っていうのは、エースたる夜につなげるために健気に働いているように感じる。風がそう感じさせるんだよな。肌を撫でるような風がさ」


「今日は、いつにもまして詩人すね」と、ゴロタ兄。


「おれは、いつも詩人だ」


 ふふんと鼻で笑いながら、ゴロタ兄はタケ爺からパスされた車のキーを受け取った。


「自分の愚かさを知ったとき、人は詩人への道を一歩踏み出すんだ」


 変てこなおじいさんは、なおもそんなことを言ってきた。

 いつだって、この老人からは何が飛び出してくるかはわからない。

 由美に色々と優しい声をかけ、後ろの席にエスコートした次には、助手席にすべりこんでブランデーを開けている。


「ゴロタ君、君は運転席にいる。だから、わたくしめが代わりに鎮魂の酒を頂こう。ふられることは、美しいことだぞ。特に、それが本当に想いを寄せていた相手からのものならな」


「おれには、よくわからんす」


「それでいい」


(そっか……)


 由美は、バックミラーを通して映る背景に目をやった。


 兄は、あの人――美香さんにふられたのだ。


 由美はお腹をさすっていた。

 ああ、そうか、これは兄の癖だったと気づく。

 ミラー越しに兄の顔を見やった。

 いつも通りに見えた。


 ゴロタ兄はエンジンを鳴らし、ミラーを調整すると、アクセルを踏んだ。



 レクサスは、東名高速に向けて転がってゆく。

 ゴロタ兄のハンドルさばきは滑らかだった。

 ついでに、舌も滑らかだ。


「それにしても、昼からブランデーなんて、いい気分すね」


「くやしいんだよ、本当はおれもな」


「なにが?」


「おまえさんが失恋したことさ」


「気持ちわりいこと、言わんでくださいよ」


 とはいえ、ミラーに映る兄の顔は明るい。


「一方で、うらやましくもある。誇れ、ゴロタよ。おまえさんは、一年前から、何歩か進んでいる」


「タケ爺がほめるなんてな」


「他の誰からも、ほめられやしないだろ」


「まあ、そうだけど」


「それと、おれはほめてるわけじゃない」


「ああ、そう」


 由美はくすりと笑い、二人の後ろ姿を見ていた。

 休日だというのに、珍しく道路が空いている。

 由美は、迫っては遠ざかり、また迫ってくる整然と並んだ緑葉樹を目で追っていた。

 ショッピングモールに向かう人々はそれぞれの家族の手を引き、歩道橋を渡る若者たちがなにか叫びながらお互いの肩を叩いている。


 町田インターの手前にあるコンビニでトイレ休憩をし、駐車場に戻ると、タケ爺が突然、


「おれは、ここで降りるよ」と告げてきた。


「え? なんすかいきなり」


「すまん、DVDを配達してもらう予定が入ってた。もうすぐ、カガワだかシロネコだかの運び屋の兄ちゃんが来ちまう。おっさんかもしれんし、あるいは姉ちゃんかもしれんが」


「トミさんがいるじゃないすか。お手伝いさんも」


「おれが、自分で受け取りたいんだよ」


「……例のDVDすか?」


 それには答えず、タケ爺は流していたタクシーに向けて手を上げた。


「あとは、おまえさんに任せる。由美ちゃんを頼んだぞ」


 ええー、と声をあげる二人をよそに、タケ爺はキャスターマイルドをうまそうに吸っている。


「それに、うるさいのがいない方がいいだろ」


 それには答えず、考え込む二人。


「……少しは、さみしそうな顔してよおん!」


 まったく、面倒くさいおじいさんだ。


 タクシーがゆっくりとブレーキを利かせ、沿道に停まると、


「じゃあまたな、クソッタレ青年と、美しく清廉なレディよ」


 と言って、軽い足取りでタケ爺はステップを踏んでゆく。

 しかたなさそうに見送りにいくゴロタ兄に、由美も歩調を合わせた。

 後部座席につくと、窓越しにタケ爺はゴロタ兄に目を向けた。


「おまえさん、この仕事が終わったらどうするんだ?」


「さあ、そんな先のことはわからないさ」


 バタン――

 つっこみ代わりに閉まるタクシードア。

 タケ爺が浮かべた憎たらしい顔の残像が車のテールライトまで移ってゆき、彼は舞台を去っていった。


「くそじじい」とつぶやくゴロタ兄。


「まだやってたんだ、ハンフリー・ボガードの物真似」


「物真似のつもりじゃないのだよ、由美ちゃん」


「さっ、いこ」


 颯爽と車へ向かう由美。

 すごすごとついてくるドライバー。

 ――最近は、ハードボイルドっぽいところを少しは見せたかもしれないけど、そこまでね。あとは、でいいじゃない。

 

 空は晴れている。

 絶好のドライブ日和だった。

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