第3話 由美の視点~兄の想い人~
*
由美は、兄の背中と美香の顔を交互に見ていた。
彼女には一度、会ったことがある。
兄と一緒に商店街を歩いているところに出くわしたのだ。
きれいなのに、気取ったところのない気さくな人だと思った。
少し話しただけだが、印象はよかった。
何より、兄の顔が輪をかけて締まりがなくなっていたのを覚えている。
「どうして、おまえが……」
そう言った兄の背中が微かに震えていた。
やっぱり――
この兄は、彼女のことが好きなのだ。
日常で聞こえてくる彼女との電話の声色、太郎との会話で口にする彼女の名前を呼ぶときのテンション、あの時、彼女と一緒にいたときの顔、今、見せている顔。
自分だって女だ。
それなりの嗅覚は持っている。
けれども、
ここにいるってことは――
由美は、ぽつんと、交互に二人を見ていた。
美香という女性は、驚いた表情を隠そうとはしていなかった。
というよりも、隠そうとする余裕さえなかったのだろう。
当然だ。
お互い、まさかこんな所で会うことになるとは思いもよるはずがない。
由美は、ゴロタ兄とタケ爺から、この仕事のことをすでに聞かされていた。
当然、ここに来る客は、人並みならない想いを抱えてやってくることも知っている。
ということは、これから、彼女の話を聞くことにもなるのだろう。
ゴロタ兄はここにいる。
そして、二人は簡単に連絡を取り合うことのできる仲なのだ。
その意味を理解する由美は、その先を想像するのを恐れ、ゆっくりと腰を上げた。
「ゴ、ゴロタ君」
「美香、だよな」
ようやく言葉で確認し合う二人をよそに、由美はシンクへと足を向ける。
「あっ、妹さんも?」
どうやら、自分のことにも気づいたらしい。
由美はそろりと体の向きを変え、「こんにちは」と今の空間には不似合いでいて、普段の日常では当たり前の挨拶をした。
「さあ、こちらへどうぞ」穏やかな声を発したのは、タケ爺だ。
さすが、と由美は感心する。
これで、ひとつの間ができた。
「おじょうさん、ジャスミンティーは好きかい?」
「あっ、は、はい」
混乱する彼女の心をひとまず収束させるような、落ち着きのある物腰だ。
さすが、老人の経験とは偉大なものだ。
体を開き、「と、とりあえず、どうぞ」と顔を強張らせるゴロタと、ちょこんと頭を下げ、こわごわと中に入ってくる彼女。
「あっ、わたしが淹れますんで」
シンクに向かおうとするタケ爺を制し、由美はバタバタと足音をたてた。
なぜだか、自分が緊張している。
やかんの前に立つと、そろりと後ろをふり返った。
タケ爺に導かれるまま、ゴロタ兄と彼女は丸テーブルの前に向かい合って座った。
タケ爺は、窓向かいにあるソファに、よいしょと腰を下ろし、二人から見ると横向きに体をおさめていた。
座ってから最初に口を開いたのは、彼女の方だった。
「けっこう久しぶりだね」
「そうだな。まさか……美香がここに来るとは思わなかったよ」
「ゴロタ君が配達の仕事してるっていうのは、聞かされていたけど――」
彼女は、今までよりも低い声で訊いた。
「まさか、ここで?」
「うん、ここで」
ゴロタ兄の声が、普段よりも上擦っている。
「びっくりだよ。ゴロタ君がここにいるなんて」
「同じく」
「仕事は楽しい?」
「まあ――」ゴロタ兄は、タケ爺の横顔をちらと見た。
「そうだな。適当にやってるよ」
「おまえ、正直だな」
すかさず、横やりを入れてくるタケ爺。
由美は思わず笑った。
テーブルの前に座る二人も笑っている(といっても、ゴロタの方は苦笑だが)。
「おじょうさん」唐突に、タケ爺が声色を低いものに変えた。
「あっ、はい」
「覚悟はできているかな? ここに来たからには、あんたは一歩を踏み出すことになる」
いきなり、踏み込むタケ爺。
相変わらず、ペースのつかめない人だ。
勝手に緊張している由美の心うちをよそに、やかんがピーと鳴った。
慌ててつまみを切に戻し、由美はジャスミンティーのパックを取り出した。
お湯を注ぎながら、横目で居間を見やる。
「不思議です」彼女は、しっかりとタケ爺の目を見ていた。
「わたしは、なにかに導かれるように、ここにやって来ました。まるで、昔からここを知っていたかのように。そして、あなたと、ゴロタ君に会いました。さっきまでは、思わぬ展開に驚いていたけれど……今は、徐々に安心感が湧いてきています。一歩、踏み出せる気がしています」
「ふむ、あんたはすばらしい女性だ。それから、おれのことはタケ爺と呼んでおくれ」
「あっ、はい」と、照れくさそうに彼女は微笑んだ。
中世の画家が描いた絵画を思わせる笑みだ。
一方、ゴロタ兄は視線を定めずに、腹をさすっている。
由美は、胸をおさえたくなった。
ひとまず、熱いジャスミンティーをお盆に乗せ、丸テーブルへと、そそくさと足を運んだ。
「ありがとう」と彼女。
「センキュ」とゴロタ兄。
「由美ちゃんの淹れたお茶が死ぬまで飲みたい」とタケ爺。
その仕事が終わると、由美はどうしたらいいかわからなくなったが、タケ爺が手で招いてくれたので、ちょこんとソファの隅に座った。
「妹さん、由美ちゃんだよね? きれいになったね」
「あっ、いえ、そんなことは。美香さんこそ、きれいです」
あはは、と子供のように無邪気に笑う彼女。
先ほどの絵画のような表情とは異なる身近な笑顔だ。
なるほど、兄が惚れるわけだ。
いつもより口数の少ないゴロタ兄をよそに、タケ爺はかまわず、その先をうながした。
「導かれてここに来たのなら、おじょうさん――いや、美香さん。手紙は持ってきたのかな?」
タケ爺……いいよ、そんなこと。
そんなこと、聞かなくていいよ。
由美は、窺うように前を見た。
兄は――目を閉じていた。
その姿は、窓の外に見える緑の霞と同調しているかのように、ゆるやかでどっしりとした佇まいだった。
兄は、ついさっきまで怯えていたはずだった。
この展開を恐れていたはずだった。
由美は、子供の頃の兄の顔、この仕事をはじめる前の兄の顔を思い浮かべる。
それらの顔を、今ここにいる兄の顔と重ねてみようと、目を閉じた。
――ああ、そうか。
兄は、確かに歩いていたのだ。
ここに至るまでの道を。
それは、これからも続いていく道程なのだろう。
「はい」
タケ爺に対する彼女の返事は、凛としていた。
「何回も書き直して、ようやく一通の手紙ができました」
そう穏やかに告げ、彼女はテーブルにその手紙を置いた。
江戸子染のしっかりとした封筒が、一通の重みを物語っている。
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