第2話 鼻歌の行方

 家に戻り、風呂から上がると、ゴロタはすぐにベッドへと転がりこんだ。


 枕元にある手紙を手に取る。

 明美からの手紙だ。

 普段はメールだが、暑中見舞いを兼ねて送ってくれたらしい。

 水色の便箋には、今週の頭に松田が遊びにきたこと、律子さんと三人で熊本に温泉旅行に行ったことが、楽しそうに書かれていた。

 手紙の結びには、「ありがとう」とある。


(たいしたこたあ、してねえんだけどな)


 それでも、やっぱり気分はよくなる。


 明美だけじゃない。

 何人かのお客さんたちも、仕事が終わるとそんなことを言ってくれた。

 この仕事をしていて一番充実した気持ちになれるのは、そういう言葉を聞いたときだ。


 翌朝七時に目覚めると、由美と一緒にお弁当をつくり――今年に入ってから、ゴロタは朝のお弁当づくりを習慣としていた――軽い朝食をとってから悲しみの森へと向かった。


 昨夜の雨跡が残る森は、どこかこそばゆく、いつもよりも内気な一面をみせているようにみえた。

 仕事場所のあるロッジに向かっていると、ゴロタは右手の方に気配を感じた。

 ハッとなって、顔を向けるとそこには、あの侍――山田源作が立っていた。

 左手は、鞘の鯉口を切っている。


 ゴロタは自分の頬をつねってみた。

 痛い。

 やはり、眠ってはいないようだ。


 今まで、この侍に会ったときは、いつもゴロタが気を失ったときだった。

 言うなれば、で会っていたのだ。

 それが、今はで会っている。


「おいおい、おれを斬るつもりか?」


 自分でも、冷静な声だと思った。

 というのも、この侍からは、まったく殺気らしいものが感じられなかったからだ。


 この侍――源作は、明朗な声で笑った。


「久方にに出てきたもんで、ちいと、素振りしてみたくてな」


 彼は刀を抜いてみせた。

 いたずらっぽい笑みから一転、源作は上段にかまえ、悠然と息を吸った。

 そのたくましい体には、覇気が満ちている。

 何も口からは発せられていないが、凄まじい気合が彼を包んでいた。


 だが、ゴロタはその姿に荒々しさというよりも、一種の静謐さを感じていた。

 体の運びにはなんの無駄もなく流麗そのもので、独特の品が漂っている。

 それなりに武勇を誇ってきたゴロタでも、心胆に震えがくるのを覚えた。


 ――ヒュッ!


 風を切り裂く音がした。

 ゴロタには、見えなかった。

 どうやら、源作が刀を打ち下ろしたらしい。

 柄を握る両腕は地面に向かって伸び、切っ先が彼の膝の高さでぴたっと止まっていた。

 源作は「うむ」とつぶやくと、ゴロタと向き合ったまま刀を鞘に収めた。


「少しはいい眼をするようになったな、ゴロタよ」


「んなこと言われても、今、あんたにすげえびびってるんだが」


 源作は微笑する。

 ゴロタは肩をすくめた。


「そういうあんたは、自分をどう思ってんだい」


 源作の笑みは、自嘲を含んだものへと変わった。


「知ってるだろう。おれは、情けなさのかたまりだ」


 ゴロタもなにも言わない。

 源作はつづけた。


「答えなど……この刀で切り取れるものではない。だが、どういう形であれ、おれはそれを求めている。ずっとな」


「よくやってるよな、あんた。もう、あれから百五十年くらい経ってるんだぜ」


「すがりついているだけだ。前に会ったときは、恰好のいいことを言ってしまったが、本当はさまよっているだけなのだ」


 雨に濡れた土のにおいが香ばしい。

 源作は森の大地に、澄んだ瞳を向けていた。


「ここに、こうしている。おぬしと会っている。不思議だな。おくにと出会い、あの出来事がなければ、こうしておぬしと会うこともなかった。死んでから、縁というものを感じるなんて、皮肉なものだな」


 それには答えず、ゴロタはすんなりと声をかけた。


「会えるといいな、おくにさんに」


 そう、本当に。

 会えると、いい――


 源作は目を閉じ、「そろそろ時間だ」と言った。

 彼の姿が、ぼやけていく。

 姿形をはっきりとさせて人前に現れることは、しょっちゅうできることではないのだろう。


「おぬし、やっぱり腹をさするのが癖なんだな」


「あんたもな」


 源作の姿はもう、見えなかった。

 代わりに、彼のかすれた笑い声が空気を伝わり、「腹を壊すなよ」という言葉が宙に漂った。

 木々の小枝から垂れる葉から、雫がぽたりぽたりと落ちていた。



 八月になり、さらに数日が経った。


「コーヒーはいる?」


「ああ、ミルクもいれてちょ」


 ゴロタは妹の由美と、ロッジで名簿のリストを整理していた。


 タケ爺曰く――やはり、あと二週間ほどで、悲しみの森がただの森になるらしい。

 それは、〈森の郵便屋〉としての力を失うことを意味する。


 仕事収めに向けて、ゴロタは今までの顧客のリストをより細かくまとめることにした。

 顧客ごとに、届け先までの道筋、所要時間、その人の想いの背景までつけ加えることにしたのだ。

 動機はよくわからないが、とにかくそうしてみようと思ったのだった。


 コーヒーをすすりながら、覚えている限りのことを記していく。

 それを見ながら、由美もコーヒーに口をつけていた。


「この人は、ハンマー投げをやってたんだって。いかつい体に似合わず繊細でさ。幼稚園のときに、いつも一緒に遊んでた女の子の消息を知りたがっててよ。手紙と一緒に、その子が好きだったプーさんの人形もつけてきたよ」


「なんか、かわいい人だね。で、その女の子は今どうしてるの?」


「栃木刑務所にいるよ。数年前に強盗しちまったらしい。いちおう、模範囚だとよ」


 ひえーっと、気まずそうに顔をしかめる由美。

 何回かこのロッジに遊びにきている由美には、もうこの〈森の郵便屋〉の仕事内容と森の力のことを話していた。

 由美は、すんなりと信じてくれた。

 こんな辺ぴな所に通っていること、いきなり倒れたこと、タケ爺という証人がいることが大きかったのだろう。


 由美は、次の仕事に同行することになっていた。

 つい最近、「あたしも手伝いたい」と言い出してきたのだ。

 ゴロタは首を横にふることはせず、そのときソファに座っていたタケ爺にただ、

「だってよ」と告げた。

 タケ爺はひとつ返事で「オッケー!」と言った。


 そのときに浮かべた由美の顔を思うと、ゴロタは頬が緩むのを覚えた。

 そんな妹は今、ゴロタの前で体をかがめて同じような恰好をし、同じものを見ている。


「この人は、どんな人だったの?」


「ああ、この人は――」


 森の緑がフィルターとなって、夏の日差しを柔らかいものにしている。

 ガラス戸を通したその陽が、頭に、頬に、鼻に心地よかった。


「よお、兄妹で水入らずのとこ、すまんな」


 その暖かいガラス戸を開けながら、タケ爺が入ってきた。

 相変わらず、この森の番人はどこからでも入ってくる。


「これから、客が来るぞ。もしかして、最後の客かもな」


「タケ爺の知り合い?」


「いや……知り合いではないな。この森に入ってくるのが見えてな」


 タケ爺は機嫌よさそうに、由美からコーヒーを注いでもらっている。

 部屋には、いつもの空気が流れている。

 心地よいものでありながら、この空間と時間だけがひっそりと紡ぐ空気。

 ゴロタは、ここが好きだった。

 とはいえ、ここにいる理由ももう少しでなくなる。


 この仕事も、終わりに近づいているのだ――


 ゴロタは名簿にあるいくつかの名前を見ながら、コーヒーカップに手をのばした。

 コンコン……

 客だ。

 鼻歌まじりのタケ爺と顔を上げた由美をおいてゴロタは立ち上がり、「はーい」とドアを開けた。


「あ」


 時間が止まったかのように、ゴロタはドアノブに手をかけたままの姿勢になっていた。

 言葉なんて、出そうにもなかった。


 そこに立っているのは、美香だった――

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