第29話 ある侍の追憶~足跡~

「おかえり」


 うん、とうなずく彼。


「なるほど、いよいよ最期か。おれは地獄行きだろうな」


 女は、しゃがみこみ、彼の手を握った。


「おかえり。あなたは帰ってきたのよ」


「馬鹿な――」


 その手には、確かな感触がある。

 何度も、何度も、自分が握った手だ。

 辺りを見まわした。


 ここは――あの場所だ。

 そう、おくにとよく話したオオモミジの木――。


 いつの間にか、ここに辿り着いていたのだ。


 つややかに肩までたれた黒髪、少し日焼けした肌、凛とした瞳。

 健康的な唇に、そこから発せられる春日和のように朗らかな声。


 彼女は、彼の知っている彼女だった。


「おくに……」


 なに? といったふうに首をかしげる彼女。

 彼が好きでたまらなかったしぐさだ。


「すまない……。ほんとうに、すまなかった。おれは……」


 手を離そうとする彼。

 しかし、離れることはなかった。

 彼女が強く握っていたからだ。


「本当だよ、こんなにいい女をすててさ。心を置いたままひとりで進みたがるから、こんなことになるんだよ」


「すまない、すまない……!」


 涙がとまらない。

 きっと、、もう止まらないだろう。

 命の意識は徐々に薄らいでいる。

 だが、心の意識は灯りはじめていた。


「おくに、今は……どうしてる」


 おくには、ゆるやかに唇を開いた。

 笑ったふりだ。

 彼女は寂しいときに、そういう表情をする。

 ああ、抱きしめたいと彼は思った。

 が、体は動かない。


「畑仕事をしてるわ。昔と一緒ね。この近くにね、家をつくったの。ほら、六太は覚えてる? あなたともよく遊んでいた、あの六太。彼が手伝ってくれてね」


「ああ、六太か。あいつ、生きてたのか」


 彼は懐かしそうに笑った。

 六太は気のいい友達で、川釣りの名人でもあった。


「うん、村が襲われたとき、六太はたまたま遠くまで釣りに行ってて助かったの。それで、わたしがここに戻ってきたとき、彼はまだここに住んでてね。今はよく、魚をくれたりするわ。あとね……一緒に、みんなのお墓を作ったのよ」


「そうか……」彼は、ゆっくりとうなずいた。


 ぱさっと、木の上からモミジの葉がおくにの胸に落ちた。


「前から思ってたんだけどね、この木、女の人が好きみたい」


「わかるのか?」


「オンナですもの」


 思いがけず訪れた、二人が夫婦だったときのようなやりとりが彼の顔をほころばせた。

 おくには、初めて出会ったときと変わらない、あの染み入るような笑みを浮かべた。


「わたし、やっぱりこの山で育ったからさ。ここが落ち着くわ」


「そう、だな」


 自分が怒りに駆られ、誰かの道を閉ざしていたとき、おくにはここで、親しい人たちの行き先をつくっていた。

 自分が新しい道を選び心の傷を深くしていたとき、彼女は元にいた道を選び心の傷を癒していた。

 自分は人を殺める生き方をしたのに、おくには人を弔う生き方をしていたのだ。


「あなた、今の名前はなんていうの? 苗字もらったんでしょ」


 おくには、そこにちょこんと座ったまま、変わらずに彼の手を握っている。

 彼は絞り出すように、声を出した。


「山田だ。山田源作。今となっては、意味のない名前だ」


「奥さんは元気なの? お子さんは?」


「今は京にいるよ。妻とは……うまくいかなかった」


 口から血が出た。

 彼女は、彼の後頭部に手をやり、もう片方の手で口をぬぐってくれた。

 彼にはわかっていた。

 彼女は、死にゆく自分にもう一度、時間をくれようとしているのだ。

 おそらく、自分がこの山に入った後、彼女はどこからか自分を見つけ、葛藤を繰り返しながらも、ひっそりとつけてきたのだろう。


 その果てに彼女がとった行動は、元夫の状態を受け入れ、「おかえり」と言って迎えることだった。


 なんて女子おなごだろう――。


 彼は、声を震わせ、しかし力強く言った。


「最後に、ここでおくにに会えたのは、おれの人生で一番でかしたことだ。こんなおれでも、天に感謝することができる」


 おくには、柔らかく微笑んだ。

 その眼には、透明の雫がたまっていた。

 やがて、それは頬を伝っていった。

 彼も同じだった。


「お子さん、元気に育つといいね」


 ああ、と彼は声なくうなずいた。


「おくに……幸せになるんだぞ。おれのことはもう忘れろ、なんてことさえ、今さら言う資格はないが……。とにかく、幸せになってくれ。おまえは、そうなれる人間だ。そして、、それを届けられるひとだ」


 おくには目を閉じ、それから彼の額に、自分の額をそっとあてた。


「あなただって、そうよ。じゅうぶん、届けてくれたわ。わたしはそれを、たしかに受け取った」


 慌ててかぶりを振ろうとする彼。

 それを察し、彼女は彼の額に手をやり、もう片方の手で袂からにおい袋を取り出した。

 白檀を詰めた袋だ。

 彼女は、遠方の国から伝わったとされるそのお香が好きだった。

 彼は、村にわずかに植えてある白檀からにおい袋をこしらえ、彼女に何度も贈ったものだった。


(まだ、持っていてくれたのか)


 彼の込み上げる感情に応えるように、彼女はまっすぐに、彼の瞳を見つめた。


「あなたは、ここでわたしに会えたのが自分の人生で一番でかしたことだと言った。でも、それはちがうわ。あなたが一番でかしたのは、村の人を助け、が来るまで、わたしのそばにいてくれたことよ。あなたといた頃、わたしはたしかに幸せだった。だから……約束して。また、どこかで会えるって」


 視界が遠のいてゆく。

 それでも、彼はまだ彼女と話したかった。

 この時間を、もっともっと、胸に抱いていたかった。


「そう言ってくれるのか、こんなおれに」


 それから、彼は決心したように何度も首をたてに振った。


「絶対だ。ここで死んでも、いつか、必ず。今度は、おまえと最後まで一緒に生きてゆく。必ず、会いにゆく。だから、おくに――おまえは、今生きているこの時代で、おまえの思うまま、それが正しいと感じるまま、生きてくれ」


 おくには、もはや自分の涙をぬぐうこともせず、彼の顔を抱え、震えていた。


「うん……ここから、届けるよ。わたしの生き方を、村の人にも、あなたにも」


 かぼそく、それでいてよく通る声で、彼は言った。


「おれも祈っていよう。おくにが幸せになれるように。そして、いつかまた会えるように」


「うん……」


「またな……おくに」


 消えてゆく命をここまで支えてくれたおくにに、彼はそう最後の言葉をかけた。

 暗くなってゆく景色に届いてきたのは、やはり彼女の声だった。


「いつか来るその日まで――さようなら」


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