第28話 ある侍の追憶~微香~
それから一年経ち、時代はますます攘夷への風雲を力強く後押ししはじめ、幕府は迷走をつづけていた。
一方、彼は新しい妻との間に一子をもうけ、御家人として重要な侍になっていた。
しかも、彼はついに討伐隊の隊長となり、陣頭指揮をとることになったのだ。
自分の村を襲ったあの憎き賊は、やはり川越藩の山に潜んでいた。
幕府との縁を背景に、彼は川越藩との交渉を自分で済ませ、討伐隊の隊長として計画を練り、その日を迎えた。
容赦はなかった。
賊の根城を見つけると、彼は先頭をきって飛びこみ、次々と敵を斬り倒した。
捕えた賊の頭領いわく、やはりこの一味は元攘夷志士の集まりということだった。
いや、正しくは攘夷志士じみた連中だったというべきか。
彼らは攘夷志士を名乗ることで、略奪しやすいように生きてきた連中だったのだ。
だが、志士だろうと、そのもどきであろうと、彼にはもうどうでもよかった。
(どちらにせよ、お前らのせいで、おれの人生は狂ってしまったのだ……!)
訊きたいことを全部吐き出させてから、彼はその場で頭領の首をはねた。
名は知らない。
他に捕えた連中も、同じく自分の手で首をはねた。
文字通り、皆殺しである。
故郷の村で捕えられ、この一味に囲われていた女たちは、助けられたにも関わらず、終始震えていた。
彼が、自分たちの村で育ったあの彼だと気づく者はいなかった。
この戦いがきっかけで、彼は鬼武者とまで呼ばれるようになっていた。
捕えた者でさえ殺し尽した行為は、世が世ならとがめられ罰せられてもおかしくない行為だったが、幕府には彼の力が必要だった。
彼は、そのままこの討伐隊を率いる権利を与えられ、その役目は新政府を立ち上げた薩長に対抗する戦闘部隊となった。
やがて、彼と討伐隊は、戊辰戦争へと身を投じてゆくことになる。
大政奉還をしたとはいえ、まだまだ幕府の方が軍事力はあるし、兵も多かった。
彼は、幕府が勝つことを信じていた。
しかし、運命はもう、彼の手の届かない方向へと転がってしまっていた。
攘夷志士が中心となった新政府の勢いは、怒涛だった。
力を失っていった幕府は無血開城し、お抱えの幕臣たちの多くが行き場を失った。
それでも、彼と討伐隊は上野彰義隊と共に戦い戦果を挙げたものの、もはやその戦果さえ、新しい時代にとっては屁にもならないものだった。
鬼武者率いる隊は、江戸から出て武蔵国でささやかな抗戦をしたものの、ついには壊滅することとなる。
彼は、山中で息も絶え絶えに歩いていた。
肩には矢が深々と刺さり、腹と左足に負った深い刀傷が歩行をおぼつかせる。
今となっては、隊長でもなんでもなく、ただの落ち武者だった。
彼は、虚空を見上げた。
世を想った。
新しい妻とは一子をもうけたものの、夫婦仲がよかったのは最初のひと月ほどだけだった。
彼女は、彼の外側にしか興味がなかったのだ。
よき着物に、由緒正しきお付き合い。
夫には、正しき礼儀作法を。
彼は、彼女の期待には応えられなかった。
(おれは所詮、山猿だ)
彼女は、そんな彼を軽蔑した目で見るようになっていき――
子を連れ、親戚のいる京に行ってしまった。
避難という名目ではあるが、二度と会う気はないだろう。
それでも、彼女に幸あることを、我が子によき未来があることを、彼は祈った。
周囲の連中は自分が出世頭だという。
しかし、彼にしてみれば、それは違っていた。
たまたま、時代の要求と自分の要求が合致していただけだ。
それは、ちょっとした富くじに当たったようなものだったのだ。
――結局、うまくいったことなんて、この生涯にはなかった。この命を、どこにも届けられなかった。
どこかの木に体を預け、ずるずると腰を下ろしながら、彼はそう思った。
深く、息をつき、目を閉じる。
いや……ひとつだけあった。
彼は、腹の辺りをさすった。
そこには、ホクロがある。
あの
おくに……!
そう、自分には、最愛の女がいた。
どうしようもなく、恋していた女がいた。
おくにがいるだけでよかった。
それでも、それだけで過ごせるほど、時代は甘くなかった。
どうして、自分は自分に負けてしまったのだろう。
彼女と共に、悲しみを乗り越え、人生を乗り越えていきたかった。
悲しくて辛くて、どうしようもないのは、彼女も一緒のはずだった。
それでも、彼女は自分のために、そのままでいようとしてくれた。
なのに、自分は、悲しみに勝つことができず、黒くなった感情に身を委ねてしまったのだ。
――目を開けていたときは、そうと気づかなかったのに、目を閉じた今、そうと気づくなんてな。
彼は自嘲するように、笑った。
そのままぐったりとしていると、ふと足音が聞こえた気がした。
懐かしい足音だ。
その音に導かれるように、うっすらと目を開けた。
白檀の香りがした。
よく知っている香りだ。
そこには、ひとりの女が立っていた。
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