第17話 錆びた感覚

 それにしても、タケ爺とのくだらないやりとりは、日に日に馬鹿げた錬度を高めてきている。

 目を腫らし、沈んでいる明美をよそに、


「鹿児島で連想するものは?」


「焼酎、西郷どん、男気という名の焼酎中毒」


「東京で連想するものは?」


「有名ブランド、スカイツリー、有名ブランドっぽいブランド」


「横浜で連想するものは?」


「おしゃれ、みなとみらい、おしゃれにかける税金」


「んじゃ――」


「待てゴロタ、次はおれの番だ。世界一の男は?」


「全米ナンバーワン映画に出てくるヒーロー。予告編のときに限るけど」


「世界一の女は?」


「支配者となった妻。だから、世界中にいる」


 といった終わりの見えない会話をずっと車中で繰り広げていた。

 そんな二人に触発されたのか、明美の表情が微かに改善されてきている。

 突然、ゴロタはハキハキと手を挙げた。


「はいっ! 写真撮りに行きましょう!」


 ゴロタは途中で車を停め、明美をうながし――タケ爺は元々乗り気なので、ほうっておいたが――海をバックに写真を撮った。

 撮影会が終わると、「ブルーハーツが歌いたい」と突然言い出したタケ爺につき合ってカラオケに行ったりするうちに、すっかり陽が暮れてしまっていた。


 もう指宿には到着しているし、森に授けられた記憶は、〈伊藤律子〉への道が近いことを示しているが、すでに人を訪ねるような時間ではない。


 タケ爺は大きなあくびをし、「今日は、もうどこかで泊まろう」というもっともな提案をした。


「安心しろ、明美ちゃん。ゴロタが襲いにきたら、おれがついててやるから」


「そりゃあんただろ。今のうち、気絶しといたほうがいいんじゃないすか」


「うるさい、このヘタレ」


「ひねくれエロじじい」


 睨みあう二人。

 明美はクスクスと笑っていた。


「大丈夫、二人とも口以外は紳士だって信じてますから」


 ん、と黙る二人。

 さすがのタケ爺も、うまく返せないようだ。


 それからしばらく車を走らせ、鹿児島湾沿いにそびえ建つ観光ホテルを見つけると、そこに泊まることにした。


 ロビーの客間は柔らかい照明でたたえられていて、マホガニー製の家具や茶革のゆったりとしたソファーが備えられていた。

 案内板には、大浴場と露天風呂、四種類ものサウナが完備されていることがさりげなく記載されている。

 ゴロタは、思わずタケ爺を崇めたくなった。


 その偉大なるスポンサー様が淡々とチェックインの手続きを済まし、「明美ちゃんは三〇二号室、おれとゴロタは三〇四号室だ」と告げる。


「タケ爺さん、ほんとにこんなところに泊まっていいんですか? しかも、わたしに一人部屋まで用意してくれて」


「ああ、いいよいいよ」


 ざっくばらんに手をふり、階段を上がってゆくタケ爺。

 やっぱり、明美に対しては、他の女の子に対する態度とは違うとゴロタは思った。

 自分の甥っ子である松田友則の幼なじみという距離感だからだろうか。


「なあ、明美ちゃんは今まで、タケ爺に会ったことないんだよな?」


「はい、記憶の中では……。でも、あの人、トモ兄の伯父さんなんですよね?」


「ああ」


「もしかして、わたしが覚えてないだけかもしれません。今さらですけど、後で聞いてみます」


 そうだな、とゴロタは軽くうなずき、彼女と階段を上がっていった。


「んじゃ、ひとっ風呂あびたら、七時半にレストランで集合するかいな」


 部屋の前で、タケ爺がそう号令をかけると、明美は「はい」と言って一礼し、自分の部屋へと入っていった。


 予想以上に広い部屋だ。

 天井にはファンが据え付けられ、壁は水色を基調とし、フロアにはアンティーク調の家具が揃えられ、バルコニーからは鹿児島湾を一望することができる。

 ホワイトグースの羽毛掛け布団が用意されたベッドに腰かけると、その心地よさにゴロタは目をとろんとさせ、タケ爺に向かって手をすり合わせた。


「ああ、寛大なるタケ爺さま。まことにありがとうございます」


「よせよ、おまえがやると、念仏を唱えてるようにみえる」


 そう言って、まんざらでもない顔で風呂支度をしはじめるタケ爺。

 ゴロタもそれにならい、「へいへい、どこにでもついてきますよ」といったていでタケ爺の後にしたがい、風呂場へと向かった。


 ヨーロッパをモチーフにした建物とは裏腹に、大浴場は総ヒノキ造りだった。

 なめらかな湯に浸かると、思わずうとうととしてしまう。


「おーい、溺れるぞ」


 ゴロタから遅れること五分、ようやくタケ爺も風呂に入ってきた。

 老人は意外にも、シャンプーに時間をかけていたのだ。


「抵抗しますねえ。もう、呼んでも毛根は戻ってきませんよ」


「いや、あいつはまだおれに気がある」


「三下り半を突き付けられたのに?」


 ゴロタはタケ爺の鋭い視線をかわすと、滑るように彼の頭頂部に目線をシフトさせた。

 風呂に入る前までは焼け野原だったが、今は、すたれた湿地帯でさみしく垂れている葦のようになっている。

 すると、タケ爺は「フン!」と気合をとばし、直立姿勢になった。

 しぶきが跳ねあがる。


「結局、男はよ。大王イカのタケとはおれのことだ」


 目をみはるゴロタ。

 そこには、たしかに大いなる生物がぶらぶらと立ちふさがっていた。

 ゴロタは、しぜんと、自分のものを手で覆った。


「ふっ、この見栄っ張りめ」


 勝ち誇った目をし、再び、ざぶんと湯に浸かるタケ爺。

「おおう」という歓喜の声があがる。


 敗北感を洗い流そうと、ゴロタは目を閉じた。

 立ち上る湯気に包まれ、体も心も弛緩してゆく。

 日本人でよかったと思う時間だ。

 見るともなくどこかを見ていた。


「おまえは、感覚を大事にする奴だな」


 ふいに、タケ爺が言った。

 「ん」と、眉をしかめるゴロタ。

 タケ爺はお湯をすくい、顔をざぶざぶとこすりだした。


「自分の感覚をもって進めばいい。思わぬ瞬間に、そいつが削られることもあるだろう。でも、それでも生き残った感覚は、おまえ自身が知らぬ間に築き上げた、おまえだけのものだ」


 ――なんだ、この展開は。


 ゴロタは何も言えず、気持ちよさそうに肩まで入浴している老人の顔をしげしげと眺めた。

 まだ、酒は飲んでいないはずだ。

「いや、あちいあちい」と言って首をコキコキと鳴らすと、タケ爺は風呂から上がっていってしまった。

「先に、レストランに行ってるぞ」という言葉だけを残して。


(ほんと、雲みてえなじいさんだな)


 ゴロタは、口元までお湯に浸かった。


 感覚、か――。


 持っているべきだった感覚が足りなかったり、あるいは、ずれていたために、自分はうまくいかないことから目を背けてきた。

 そんな自分の感覚は、ろくでもない道ばかり選んできたのだ――

 いや……そんなことを、今、思ってみても意味はないのだ。

 

 今は、ここにいる。


 結局は、自分が選んだ仕事をしてきて、このお湯を味わっているのだ。


 ゴロタは、お湯をすくって勢いよく顔を洗った。

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