第9話 静謐~眠れる世界~

「やあ、またあんたか」


「相変わらず、間抜けな面をしてるな」


 霧が辺りを包んでいる。


 目の前には静謐な池があり、その中に漂う大きな蓮の上に、二本差しの精悍な侍が立っていた。


 ゴロタは冷静だった。


「まだ、ここにいるのか?」


 侍は、くすんだ笑い声を立てた。


「いるしかない。ずっと、待っているしかない」


「そうか」


「一度逃げたことへの業は大きいな。この刀など、なんの役にも立たぬ」


 時代――それは、ひとりの人間の力でどうにかなるものじゃない。

 この侍は、どうにもならない波に呑まれてしまったのだ。


 ゴロタは侍の境遇に思いを馳せ、腹をさすった。


「なあ、しょうがねえよ。あんた、今だってよくやってる。おれなんかがこんなこと言うのも変だけどな」


「気を遣わせてすまんな」


 彼は穏やかに、そして寂しそうに微笑した。


(じゃあ、こんなとこに呼ぶんじゃねえよ)


 そう思いつつ、ゴロタは深く息を吸った。

 白檀のような、穏やかな香りが鼻の中で柔らかく広がった気がした。


「おぬしの妹――由美はよき女子おなごだな」


 どうだろうな。

 そう言わんばかりに、ゴロタは肩をすくめた。


「なにしにきたんだ?」


「ん……なんとなくな」


「なんとなく失神させるなよ」とは、ゴロタは言わなかった。

 いや、言えなかった。


「でもよお、あんたが思うよりも、おれたちは元気でやってるぜ。それって、孝行ってやつだろ」


 ゴロタは大げさに肩を上げてみせた。


 侍は、ふと笑い、遠い目でなにかを見上げた。

 ゴロタが侍の視線の先を追うと、あのオオモミジがぼんやりと浮かんでいた。


「なにかを見るというのは、簡単で難しいものだな」


「おいおいおい」


 思わず、ゴロタは声をあげていた。

 侍の姿がぼやけていっているからだ。


「微妙な感じで、消えるんかよ。ほんと、勝手な野郎だな」


「この空間には、あまり長くいられなくてな」


 侍の姿はほとんど透明になっている。


「伝わるといいな、色々と」


 彼がそう言い残した後、ゴロタは誰もいなくなった空間を、ただぼんやりと眺めていた。


 無性に、誰かに会いたくなっていた。

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