第8話 妹と歩く

 ――いつ以来だろう。となりには、妹がいて、しかも楽しそうにしてやがる。


 ゴロタは、見慣れつつある森の風景の中で、我が妹がはしゃいでいる様子をぼんやりと見ていた。


 由美はふいに走り出し、やんわりと曲がっているマツの枝にジャンプしてタッチしてみせる。

 ふり返ると、子供の頃から変わらない八重歯を見せた。


「おもしろい人だね、タケ爺さん」


「だいぶ、変人だけどな」


「それは、お兄ちゃんもでしょ」


「変かなあ」


「変だよ」


「そうか」


「ハードボイルドには、ほど遠いね」


「おまえにゃ、わかんねえよ。おれのしぶさが」


「なんか言った?」


「いえ、言ってません」


 小気味よく笑う妹の無邪気な背中を見ながら、ゴロタは、妙に新鮮な気持ちになっていることに戸惑っていた。


 これまで、由美という妹は、そばにいながらも、色々と言い合ったりしながらも――いつも、ゴロタが負かされているが――ろくに、自分の視界に入ってこなかった。


 だが今、いきいきと歩く由美の姿が、はっきりと自分の目に映っていた。


 由美は、いつも自分の後をついてまわった女の子だった。

 いつの間にか、生意気で優しい女になっていた。


 ひとつ息をつき、ゴロタは、「はしゃいでこけても、助けねえぞ」と声をかけた。

 由美は、「ご心配なく!」と上機嫌でこたえ、弾むように大地を踏みしめてゆく。

 ゴロタは「やれやれ」と口の端を上げてつぶやき、その後をついていった。


 しばらく、スギの木が並ぶ小道を歩いていると、やがてその並びが、ぽつぽつと間を開けはじめた。

 その先は、バスケットボールのハーフコートほどの草地になっており、草地の真ん中に、大きなオオモミジが立っているのが見えた。

 十四、五メートルはあるだろう。


 それは、この森に居座る王様のように、威風堂々としている大樹だった。


 灰褐色の樹皮の表には数本の割れ目がたてに流れている。

 苔のむす老獪でたくましい幹から広がる枝の葉は、紅色、橙色とあらゆる秋色に彩られていた。


 由美は、その樹に見入っていた。


「立派なオオモミジだねえ、長生きしてるんだろうね」


「おれらよりはるかに長くな」


 大樹の肌に、ゴロタは手をかけてみた。

 意外と、すべすべとしている。

 清浄された空気を吸って生きているもののにおいが、気分を落ち着かせた。

 となりで、由美も同じ行動をとった。


「お兄ちゃんと、こうしてるなんてね。小学生のときに家族で丹沢に行って、キャンプしたのを思い出すね」


 ゴロタは首をひねり、それから、声を発した。


「ああ、あんときか。親父、ひどかったよな」


「そうそう! お母さんとあたしたちを置いて、ひとりでどんどん前に進んじゃうし、『山と空とおまえたちが好きだあ!』って突然、わけわかんないこと叫びだすし、みんなで作ったカレーをお尻でひっくり返しちゃうし」


「結局、非常用に持ってきてたカップラーメン食ったんだよな」


「思い出すと、腹立ってきた。ほんと、クソオヤジ」


 だよなあ、とゴロタはうなずく。

 それでも、気分は悪くない。


(母さんは、元気だろうか。今度、電話してみようかな)


 そんなことを思いながら、ゴロタはもう一度オオモミジの樹肌をなでた。


「でもさ」


 由美も同じことをしている。


「楽しかったよね」


 口では返事せず、ゴロタは少しだけ首をたてに動かした。


「覚えてる? あのとき、山登りの途中で、あたしの足の親指に棘が刺さっちゃってさ。ずっと泣いてるあたしを、お兄ちゃんがおぶってくれたんだよ。途中で、お父さんにバトンタッチしたけど」


「へえ」


「あのときは、優しかったのにねえ」


「今だって、そうさ」


 ふっ、と憐れむような眼をしてみせる由美。

 そうかい、と苦笑するゴロタ。

 あと少し歩いたら、そろそろロッジに戻ろう。

 そう思い、ゴロタはオオモミジから手をはなし、歩きだした。


 と、そのとたん、めまいがした。


 意識が揺らぎ、失神と眠りの中間にいるような感覚に陥った。

 足元を見た。

 地面が近い。

 どうやら、膝をついているようだ。


「ちょっ、お兄ちゃん! 大丈夫?」


 由美の甲高い声が耳に届いた。

 が、視界に、靄がかかってゆく。

 が遠のくをゴロタは感じた。


 ああ、またあの夢に向かっていくのか――

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