第7話 由美の視点~兄との呼吸~

「ごめんなさいっ!」


 由美は、地面に頭をこすりつけんばかりに、老人に頭を下げる。

 老人は、すでに作務衣を身にまとっていた。


「気にすんなや、お嬢さん。いや、素敵なお嬢さん。それより、あなたの黄金のような心に、後悔という碇をおろしてしまったおれの方が申し訳ない。さあ、その美しい顔を上げておくれ」


 すかさず、ゴロタ兄が口を出してきた。


「どうしたら、そんな気味悪い言葉が吐き出てくるんだ? あんたの脳を一回でいいから、のぞいてみたいぜ」


 兄と老人が、何やら言いあいをはじめる。

 どうやら、老人は昔田という苗字で、タケ爺と呼ばれていて、このロッジの持ち主らしい。

 兄とは打ち解けているようだが、今、そんなことはどうでもいい。

 

 不肖の兄と言っていたが、由美は自分も不肖の妹だと思った。


「すみません。気が動転しちゃって。本当に申し訳ありませんでした」


「いいってことよ」と、なぜかゴロタ兄が答えてきたが、老人はそんな彼を制し、「いかん!」と声をあげると、軽やかに由美の手を握ってきた。


「これ以上は、謝っちゃいかん。君には、笑顔でいてほしい」


「はあい、しゅうりょおー」


 戸惑う由美の横からゴロタ兄が手を伸ばし、昔田老の手をつかむと、由美から引き離した。


「おい、無粋なことはするな。だから、おまえはもてないんだよ、唐変木が」


「いちおう、妹だしな。それと、あんただって、もてねえだろ」


「うるさい、ばあか」


「くそじじい」


「やんのか、若僧が」


「よせよ、お迎えがきちまう」


 由美がおろおろとしている間に、三十の男と七十代であろう男が品なくにらみ合っている。

 あげく、「ばあか、ばあか」とか「棺桶、用意しないとな」とか「へっぴり腰が」とか、いつまでもくだらない言葉を投げ合っていた。


 由美はたまらず声をあげた。


「もう、やめなさい!」


 男たちは、びくっとして、恐る恐る由美へと顔を向けてきた。


「二人とも、いい大人なのに、かっこわるい」


 うう、と下を向く老人。

 その横で「ざまあみやがれ」と罵るゴロタ兄。

 そんな兄をつねる由美。


「おい、おまえのせいで怒られたじゃないか。自分の孫くらいの子にどなられるのは、けっこうきついんだぞ」


「自業自得すよ」


 そんな二人を見ていると、由美は目くじらを立てた自分がばからしく思えた。

 込み上げてくるものに抵抗しようと、口元を手で覆う。

 が、こらえきれず、声を立てて笑ってしまった。


 きょとんとする男らを前に、由美は目元をぬぐった。


「ごめんなさい。でも、なんかおかしくなっちゃって。おじいさまには失礼かもしれないけど」


「おじいさまか……」


 しょんぼりとする老人。

 が、彼はすぐに顔を上げ、欠けた歯をみせて微笑んだ。


「タケ爺と呼んでおくれ。呼び名ってやつは大事なもんだ」



 それから――

 三人でテーブルを囲み、せんべいの袋を開け、お茶をすすった。


「今日は、外で肉でも焼こうかと思ってな。それで、薪を拾ってたんだよ」


「でも、なんでふんどし一丁だったんですか?」


「解放感だよ、お嬢さん。男には、意味のない解放感を味わいたくなる時間があるんだよ」


「変態なだけだろ」


 横やりをいれる兄の肩に、が軽くパンチをいれる。


 由美は、窓の外に目をやり、二人のじゃれ合いをさえぎるように質問した。


「ここが、職場なんですよね?」


「ああ、そうだよ」


「宅配をしてるって聞いたんですけど、本当に、ここにお客さんが来るんですか? 荷物を持って?」


 ゴロタ兄がタケ爺の顔を見た。

 タケ爺はちらとだけ彼に視線を合わし、穏やかに話しだした。


「手紙だよ。我々は、ここに手紙を持ってくる人間の手紙を、宛先人に届けとる。転送サービスみたいなもんさ。もっとも、実際に仕事をしてるのはこのゴロタだけどな。安心しなさい、別に怪しいことをしているわけじゃない」


 由美は髪に手をやり、もう一度窓の外を見た。

 ツバメが、緑の茂みの上をすっと横切っていくのが見えた。

 

「あの、お話を疑うつもりはないんですが、どうして、ここで仕事をしなくちゃならないんでしょう? お客さんは、ホームページとかを見て、ここにやってくるんですか?」


 兄は黙ってお茶をすすっている。

 タケ爺に任せるつもりなのだろう。

 老人は先ほどと変わらないペースでつづけた。


「ここは、不思議な森でな。といっても、由美ちゃんに説明はできない。実際に体験しないと、真にはわからないからな。まあ、そのうち機会があればゴロタの手伝いをしてみるといいよ」


 うーんと、由美は首をひねった。

 昔、兄が友達ばかり相手にして、その輪に近づこうとする自分をじゃけんに扱った光景が思い浮かんだ。


 今も、そんなタケ爺の言葉に兄は迷惑そうな顔をしてお茶をすすっている。


(よし、どこかでまたここまでついてきて、


 そう勝手に決めてから、ひとまず、違う角度から話題をふってみることにした。


「実は、この森には昔、兄と来たことがあって。〈悲しみの森〉って呼ばれてるんですよね? そんな感じ、あたしにはしませんけどね。外から見るとうっそうとしてるけど、中に入ると意外に日当たりがよくて、木漏れ日だって気持ちいいし、空気もおいしいですもん。このロッジも、すごくいいし」


「ほほう、それはそれは」


 感心したように、タケ爺は相好を崩している。

 兄はあくびをしていた。

 相変わらず、腹の立つタイミングで、腹の立つことをする奴だ。


「いや、由美ちゃんはすばらしい。君は、我が人生にひまわりのような健やかな色を与えてくれる女性だ」


 由美は、苦笑をごまかすように、湯呑を大きく傾けてお茶を飲んだ。


「いやあ、タケ爺さんの奥様には、きっとかなわないですわ」


 我ながら、兄並みにいい加減なことを言ったな、と由美が反省すると、タケ爺は今までに見せていた態度とは一変し、ぼそりと言った。


「もう、妻とは別れていてな」


 由美は兄を見た。

 兄は下唇を突き出し、首をふった。

 ごめんなさい、とも言いにくい雰囲気なので、由美は急いで話題を変えた。


「あの、お兄ちゃんは、タケ爺さんにとってどんなスタッフですか?」


 タケ爺はすぐに答えた。


「ああ、どうでもいいよ、こいつは」


「ですよね」と言いつつ、由美は肩を揺らした。

 兄は仏頂面だ。


 タケ爺はそんな兄にはかまわずに、今度はゆっくりとした口調で言った。


「悲しみの森か……。そう聞くと、近寄りがたい響きに聞こえるがな、本当のところはどうだかわからんもんだよ。悲しみと呼ばれているものが、どういう物語を持っているのか。その悲しみってやつがどこに向かっているのか。それを見つけるのは、すごく責任のいることなんだ。そして、それを見つけられた人間は、優しさをも見つけることができる。もう、二度と揺るがないほどのな」


 ゴロタ兄が喉を鳴らした。


「タケ爺ってよお、いきなり変なこと言うよな」


「変なことと、真面目なことは、表裏一体なんだよ」


 へえー、と大きく苦笑いしてみせるゴロタ兄。


 由美は、また窓の外に目を移す。

 少し感傷的になった気持ちとは裏腹に、森はいつも通りの美しい日常で賑わっているように見えた。


「ねえ、ちょっと散歩しようよ」由美は兄に顔を向ける。


「へ、なんで?」


「いいから。なんだかね、ちょっと歩きたくなったの」


「面倒くせえなあ」


 ゴロタ兄はせんべいを食べはじめている。

 由美が怒るかすねるか悩んでいると、タケ爺が助け舟をだしてくれた。


「行ってこいよ。おれは、昼飯の準備でもしてよう。由美ちゃんにおいしいお肉を用意しなきゃな」


 ええー、とごねるゴロタ兄を無視して、由美は立ち上がった。

 兄の手を引っぱり、ドアの前まで連行する。


「ほら、早く」


 しかたなくうなずく兄の手を握ったまま、外に出た。


 秋に包まれた風は肌寒さを感じさせる。

 でも、この季節特有の、さまざまな色合いを帯びた木々が視界を占める光景は、由美の心を高揚させた。


「気持ちいいね」


「ああ」


 兄はまんざらでもない顔をしていた。


 兄妹で肩を並べて歩いてゆく。

 土を踏みしめる音に呼応して、木々が呼吸を合わせているような気がした。


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