第6話 由美の視点~遊歩~
「こんなとこ、入ってくの?」
由美は、目の前に広がるうっそうとした森を見て、口を開けた。
こんなところに仕事場なんかあるわけがない。
「ほんとにここなんだよ。信じなくてもいいけどな」
「今日、十三日の金曜日だっけ」
「安心しろ、おまえは殺さない」
「ちょっと、やめてよねそういうの」
昔は、兄に怖い話をされたり、お化けの恰好で驚かされたりしてよく泣いたものだ。
そんなことを思い出したのかはわからないが、ゴロタ兄は目元を緩め、「ついてくるんだろ」と言ってきた。
由美は小さくうなずき、兄の後ろをついていった。
外から見るのとはちがって、森の中は十分に光が行き届いていた。
ヒノキの枝の隙間から朝の光が地面に暖かみを与え、そよとした風が木の葉を揺れ起こしている。
足の裏から伝わる森の大地の柔らかさと、緑というフィルターを通して肌に触れる空気がなんとも心地よかった。
「――おれたち、ガキの頃にここに来たことあるんだぜ」
前を歩くゴロタ兄は、小枝を手に取ってぶらぶらとさせている。
由美は必死に頭の中の記憶をかき集めていた。
小さな映像が浮かんだ。
「あっ、カブトムシ!」
ゴロタ兄はふり返り、嬉しそうに笑った。
そう――暑い夏だった。
カブトムシをとりにいくと言って、はりきって家を飛び出した兄の後を必死でついていったのだ。
兄はうざったそうに自分を追い払おうとしていたが、結局、夕方になるまでそばにいてくれた。
「そっか……あのときの森か」
「珍しいな。由美の方が忘れてたなんて」
「忘れてないよ。ただ、思い出すのに時間がかかっただけ」言いながら、それは本心だと思った。
兄との思い出はいつの間にか、そういうものになっていたのだ――。
「ここって、急にみんな行かなくなったよね。たしか、悲しみの森とか言われてて、変な都市伝説ができたんだよね」
「ああ、なんか変な男が子供をさらうってやつな」
「なんか怖くなってきた」
「手え、貸そうか?」
「やめてよ、気持ちわるい」
だよな、とゴロタ兄は笑った。
由美もつられて喉を鳴らす。
やがて、轍のような道が開けた先に、山小屋じみたものが建っているのが見えてきた。
ゴロタ兄はその小屋を指さし、こほんと咳払いした。
「あのロッジが、おれの仕事場だ」
「へえー!」
この森といい、このロッジといい、兄の職場は意外性に満ちていた。
こんなところでどんな宅配の仕事をしているのかはまだ謎だが、普段はビルが忙しなく建ち並ぶオフィス街にいる由美にとって、この光景は新鮮なものに満ちていた。
光沢のある木製の階段を上がると、ロッキンチェアーがよく似合うバルコニーに足をかけ、ゴロタ兄は慣れた手つきで真鍮の鍵を手に取り、ドアを開けた。
「まあ、入れよ」
由美はさっそく、中を見渡した。
丸テーブルに、ソファ、部屋の奥にデスクがあるくらいの部屋だが、こうした森の空間にあるだけに、その質素な造りはここにふさわしい物腰を備えていた。
由美はあちこちと歩きまわり、シンクを発見すると、がちゃごちゃと食器を手にとりはじめた。
こんなところは、兄に似ていると思う。
「よかったら、持ち帰ってもいいんだよ、お嬢さん」
突然、ドアがバタンと閉まる音と共にしわがれた声がした。
といっても、由美が入ってきた正面口じゃない。
シンクから二メートルほど先にある勝手口からのものだった。
はっと見ると、そこには、上半身裸で薪を一束抱え、ふんどししか身につけていない怪しげな老人が立っていた。
「きゃああああああ! どヘンタイ!」
由美は、森を這いずるミミズでさえ飛び上がるほどの声をあげ、アメフト選手なみのタックルで部屋の真ん中にいるゴロタ兄に抱きついた。
「く……苦しい」
由美の腕は、兄の首にしっかりと巻きついていた。
「おーい、ヘンタイはなかろう。あ、どヘンタイか。ひどいな」
「あっちに行け!」
叫びながら、由美は手に持っていたスプーンを老人に投げつけた。
「由美……聞くんだ。ま、まずは、人の話を聞くんだ」
自分の腕を握る力に気づくと、由美は青ざめている兄の顔を見た。
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