第4話 由美の視点~兄貴との距離~

                 *


 朝六時に起き、顔を洗い、二人分の朝食を用意して自分のぶんをさっさと食べ、歯を磨き、メイクをし、髪を整える。

 職場にはスーツで行っているので、服選びはシャツのチョイスに少し困るくらいだ。


 ひととおりの支度が終わると、腕時計をちらと見た。

 彼氏の健太にもらったアップルウォッチだ。

 玄関でパンプスに足をつっこみながら、左後ろにある部屋のドアをふり返った。

 バカ兄貴の部屋だ。


 どうやら、いつも通り、まだ夢の中にいるようだ。

 この時間に起きているのを見るのは、数カ月に一回くらいだ。


 由美は、昨日のことを思い出していた。

 仕事帰りに我が兄貴の悪友である太郎にばったりと会い、そのまま飲みに行ったのだ。

 


「毎日、満員電車に乗って、肩凝る仕事してさ。今も、面倒くさいクライアントを相手にしてて。たまに兄貴みたいに自由になりたいときがあるわ」


 三杯目のビールを飲み、由美はタコわさびをつまみながらこぼしていた。

 

「由美ちゃんはよく頑張ってると思うぜ」


「おっ、警官どのにそう言われると、うれしいねえ」


 太郎のおちょこに日本酒を足してやる。


「彼氏とはうまくいってんのか?」


 由美はため息をついた。


「どうだろうね。あたしと一緒に住みたいみたいだけど」


 彼氏の健太は都内の有名な商社に勤めている。

 まだ二十七だけど、年収は同年代に比べればはるかに良かった。

 ハンサムだし、気が利くし、会話もそつない。

 でも、自分の思い通りに生きてきたのか、思うように由美が動いてくれないと――口には出さないが――機嫌が悪くなるところがあった。

 多くの人が羨むであろうエリートでありながら、その背中に厚みは感じなかった。

 きっと、大きな挫折を経験したことがないのだろう。

 もしかしたらあるのかもしれないが、それを自分の血肉とする器は持っていないように思えた。


 由美はこのまま彼といて、幸せになれるかについては自信がなかった。

 そんなことを話すと、太郎は顔をしかめた。


「厳しいなあ、由美ちゃんは」


「そうでもないわよ。あの兄貴に我慢してるんだし」


「たしかに」


 太郎はおちょこをぐいっと飲み干すと、自分の手酌でまたおかわりを足した。

 

「でもよ。由美ちゃん、その兄貴のこと、なんだかんだで好きじゃんか」


 あやうく、ビールを吹き出しそうになる。

 由美は半ば呆れて、半ば真面目に言い返した。


「なによ、それ」


「兄妹ってなあ、いいもんだな。おれは一人っ子だからよお」


「一人っ子で、不良警官だなんて、傑作ね」


「ほめてんのかい?」


「そうとりたきゃ、どうぞ」


「じゃあ、そうとっとく」


 頬の中だけで由美は笑った。


 兄貴か――。


 ぼんやりと、由美は昔のことを思い出していた。

 近所の公園、どこかの森、旅行先で泳いだ川、ディズニーランド、伊豆のサイクリング。

 自分は兄の後を必死でついてまわっていた。

 兄は、そんな自分を時に面倒くさそうに、時に手をとって、時に笑っていなしてくれた。

 自分は、たしかにお兄ちゃん子だった。


 いつからだろう。

 大好きだった兄は、いつの間にか、どこかで立ち止まっていた。

 彼はもがくそぶりも見せず、誰かに助けを求めようともしなかった。

 

 あたしだって、兄貴になにかできるのに――。


 酒の力だろうか。

 泣きそうになってくる。

 由美は、「さあ、食べよ食べよ」とマグロの刺身に箸をのばした。

 しかし、太郎は、そんな声は無視して、


「あいつはさ」


 とつぶやき、机の上でタバコをとんとんと軽く叩いた。


「自由なんかじゃねえよ、本当は」


 そうだね――。

 声に出さず、由美はそう言っていた。


「ものぐさなくせに、ごちゃごちゃと考えてやがる。優しいくせに、ごまかそうとしやがる。面倒くせえ奴さ」


 シュッと、太郎がライターをつける音がした。


「あいつが、ゴロタって仇名なのは、ゴロゴロしてばかりだからじゃねえんだ、ほんとは」


 由美はじっと太郎の話に耳を傾けていた。


素手喧嘩ステゴロごん。あいつ、喧嘩が強いのは知ってんだろ?」


「なんとなく」


 兄は、中学、高校と、泥や血のついた制服で、顔を腫らしたまま帰ってくることがよくあったし、家庭訪問でもないのに学校の担任が家にやってくることもあった。

 父はそんな兄をとがめることはなかったが、母はいつも心配していた。

 由美はといえば、その頃から、兄とあまり話さなくなっていた。

 だから、その頃の兄が具体的にどんなことをしていたのかはよく知らなかった。

 ふたたび兄とまともに話すようになったのは、彼が大学に受かった後からだ。


「あいつ、特に不良ぶってたわけじゃなかったし、校内暴力もしなかったし、なにより自分から喧嘩を売ることはなかったんだけどさ。中学のとき、一コ上の怖え先輩にからまれたときに、その先輩を返り討ちにしちまったわけよ。それからは、仲間に頼りにされてな。誰かが他の学校の奴にやられたり脅されたりすると、ゴロタが出ていって、解決するわけさ。いわば、用心棒ってやつだな。高校でも、そんな感じだった」


 驚きもせず、由美は聞いていた。

 あの兄なら、そうだったろう、と容易に想像できたのだ。


「ゴロタは、喧嘩の際、絶対に武器は使わなかった。いつも素手で相手に立ち向かっていたよ。おれは、今は警官だけど、学生時代は恰好だけの弱い不良でさ。そんなゴロタに憧れてたんだぜ。強いくせに、普段はぬけてて、普通の生徒からもからかわれるようなところも、かっこよく見えた。おまけに、昼休みになると体育倉庫のマットでゴロゴロと寝るような奴だった」


「ステゴロが強くて、ゴロゴロしている。だから、ゴロタって仇名になったのね」


 ああ、と言い、太郎は楽しそうに笑った。

 きっと、学生時代の兄との思い出が頭をよぎったのだろう。


「あいつは脆いところがある。それを知ったのは、あいつと知り合ってからずいぶんと経ってからだったな。おれは、ゴロタの強さと怖さを知ってたから、妙に安心しちまったもんさ」


 ――あたしは、昔から知ってたよ。


 でも、由美は言葉に出さず、兄がそんな一面を見せた情景を思い起こしていた。


 飼っていた金魚に変なエサをあげて死なせてしまい、部屋の隅で泣いていたこと、〈若きウェンデルの悩み〉を読んで落ち込んでいたこと、母が肺炎にかかった際には泣きながら仏像に向かってお祈りをしていたこと……。


 黙っている由美に、なにかをうながすような口調で太郎はつづけた。


「あいつの本当の強さってのは、腕っぷしじゃない気がする……。まあ、うまく言えねえけど、あいつは今、新しい成長をつかんできているように思うんだ。だから、きっとうまくいくよ」


 うん、と由美はうなずき、「ちょっとトイレ」と言って、席を立った。


 トイレのドアを閉めると、まずは鏡を見た。

 あわててハンカチを取り出す。


 やっぱり、ひどく目が潤んでいた。

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